第十九章廿二 紫霞は宵霞の下へ、紫霞を追う徨紫
幻が、再び立ち上がった。
紫の残光が空間を縫い、地面にもう一度、歪な影が貼りつく。
焚火の炎は逆立ち、巫術の香は細く震えながら夜に溶けていく。
紫霞は、ゆっくりと腕を上げた。
ひとつ、指を鳴らす。
それだけで、空間の“裏側”がひそやかに開く。
「……さあ。続きをしましょうか、北の巫女長。」
幻は、先ほどとは質が違っていた。
数ではない。
圧だ。
空間そのものが、紫霞の意志を帯びて徨紫を押し包む。
視界は収縮し、音は遠のき、現実は紙のように薄くなる。
徨紫は静かに息を吸った。
「……来なさい。」
扇をわずかに振る。
煙が、線となって伸びる。
幻と幻の間に、一本の“基線”が引かれた。
それは結界でも、障壁でもない。
――世界を“正しい位置”へ戻すための楔。
紫霞の幻が、その線に触れた瞬間。
びし、と。
空間に、細い亀裂が奔った。
「面倒ね……」
紫霞が呟く。
次の瞬間、彼女は踏み込んだ。
徨紫の肩口へ、実体のない一撃が走る。
だが、徨紫はその動作を“知っていた”。
半身を引く。
煙が渦を巻き、衝撃を飲み込む。
「……浅い。」
紫霞の眉が僅かに吊り上がった、その時。
地が――鳴った。
低く。重く。
空気が、腹の底から揺さぶられる。
焚火の炎が、横に倒れ、
香炉が、音もなく割れた。
徨紫の目が、大きく見開かれる。
紫霞は、動きを止めたまま、唇の端を歪めた。
「……ああ。」
吐息のような声。
…静寂が、ふいに訪れた。
先ほどまで、空間をねじ曲げ、色を塗り替え、心そのものを削ろうとしていた幻も、いまはただ、夜の闇に溶けているだけだった。
紫霞と徨紫は、互いに一歩も退かぬ距離で向き合っていた。
香炉から立つ煙が、二人の間をゆっくりと横切る。
紫と薄青が混じり合い、境界を描くように揺れる。
「……で。」
先に口を開いたのは紫霞だった。
さきほどまでの、からかうような声音ではない。
けれど、決して弱さを見せる響きでもない。
「“女の戦い”は、いったんお預け、というわけね。」
徨紫は、扇を閉じたまま微かに笑った。
「そうですね。
どちらか一方が、ここで勝ち切れるほど――
安い因縁でもありませんし。」
「生意気。」
紫霞の唇が、不機嫌そうに歪む。だが、瞳の奥には別の色が灯っていた。
興味。
苛立ち。
そして、かすかな愉悦。
「……本当に気に入らないわ。
あなた、その歳で、“まだ負けるつもりがない”目をする。」
「お互い様でしょう?」
徨紫は、紫霞の双眸を正面から受け止めた。
「あなたも、“まだ奪い足りない”目をしています。」
わずかな沈黙。
そこに、夜風が吹き込んだ――その瞬間。
大地が、再び震えた。
ドン、と腹の底に響く一撃。
空気が一拍、潰れてから膨らみ直す。
瘴気と霊力と、肉と骨。
それらがまとめてぶつかり合ったときにしか生まれない“衝突の音”だった。
「……宵兄。」
紫霞の視線が、闇の向こうへと向く。
次の瞬間、二度、三度。
波のような衝撃が遅れてくる。
徨紫もまた、目を細めた。
(瘴気……だけじゃない。
“生の拳”と、“牙の衝突”……)
黒狼族の本陣のほうから、霊脈が一瞬だけ軋んだ。
地そのものが、「ここで殺し合いが行われている」と訴えている。
「……随分、派手にやっているわね、宵兄ったら。」
紫霞は、溜息とも笑いともつかぬ息を吐く。
徨紫は、扇を軽く持ち替えた。
「あなたの兄君に、うちの“狼”が噛みついていますから。」
「ええ、感じる。」
紫霞は、さらりと言った。
「宵兄の瘴は、いま“切れて”いる。
本気で殺しに行って、本気で噛まれ返された――そんな波。」
ほんの少しだけ、声音が柔らかくなる。
「……あの人、素でやり過ぎるのよ。
だから、止めてあげないと。」
徨紫の眉が、少しだけ動いた。
「助けに行く、と?」
「助けるなんて可愛いものじゃないわ。」
紫霞は踵を返しながら言う。
その背に、まだ幻の余韻がまとわりついている。
「“三度目”よ。
ここまで北を揺さぶって、
武と巫術と地脈のお返しを、真正面から食らって――」
振り返らずに、肩越しに。
「ここで“折れたら”、冥妃さまに顔向けできないでしょう?」
徨紫は笑った。
今度は、本当に楽しげに。
「忠義深い妹君ですね。」
「皮肉、聞こえてるわよ。」
一歩、紫霞が進む。
地面が、彼女の足取りに合わせて、かすかにきしむ。
徨紫は、その背を黙って見送らない。
扇が、ぱちんと鳴って開かれた。
「――行かせませんよ、と言ったら?」
紫霞の足が、ほんの僅かに止まる。
振り返らずに、問いだけを返した。
「止めるつもり?」
「白華殿が、この地にいる限り。」
徨紫の声は、低く、しかし澄んでいた。
「あなた方に好き勝手させるわけにはいきません。
宵霞も、影の長も――
ここで“揃って”撤収されると困るんです。」
紫霞は、そこで初めて振り向いた。
瞳に、うっすらと笑みが戻る。
「……ふうん。」
扇と煙。
紫の瞳と、巫女長の静かな黒。
女と女の視線が、再び絡み合う。
「白華一人のために、そこまで?」
「一人、ではありません。」
徨紫は、きっぱりと言い切る。
「白華殿を護ることは――
北方部族連合の“誇り”を護ることです。」
紫霞は、少しだけ目を見開いた。
(誇り、ね……)
黒龍宗に身を置き、
奪うことでしか生を証明できない世界で育ってきた彼女には、
その言葉は、少し癪に障る響きを持っていた。
だが、同時に――羨ましさにも似た棘を含んでいた。
「……本当に、気に入らないわ。
あなたも、あの娘も。」
「それは、光栄ですね。」
徨紫は、深く頭を垂れることはしない。
だが、軽く会釈だけは返した。
次の瞬間――
再び、地が震えた。
今度は先ほどよりも、ずっと深く、長く。
瘴の匂いと、血の匂いと、土の軋みが、まとめて押し寄せる。
紫霞も徨紫も、同時にそちらへ顔を向けた。
「……決着。」
紫霞が呟く。
徨紫も、頷いた。
(宵霞と、黒牙・灰牙。
どちらも――“生き残った”波。)
負けてもいない。
勝ち切ってもいない。
だが、ただの探り合いではない、
命を削った“痛み分け”の揺れだった。
紫霞は、決意を固めるように息を吐いた。
「……仕方ないわね。」
徨紫が身構える。
だが、紫霞はここで“斬り合い”を選ばなかった。
指先が、ひらりと動く。
彼女の周囲の景色が、わずかに滲んだ。
「北の巫女長。」
紫霞は、正面から徨紫を見る。
「今日のところは――
宵兄を拾いに行くだけにしてあげる。」
「撤退を、選ぶと?」
「撤退?」
紫霞は、くすりと笑った。
「違うわ。
“次の場”を選ぶだけ。」
その言葉には、負け惜しみでも虚勢でもない、
冷静な判断が宿っていた。
「ここであなたと潰し合うのは、
冥妃さまの望む形じゃない。」
徨紫は、目を細める。
「……理解しているんですね。」
「ええ。」
紫霞は、あっさりと言う。
「三つの華を狙うこの盤面で、
北をここで潰し切るのは、まだ早い。」
白華。
曹華。
興華。
その名を口に出すことはしない。
だが、互いに――何を指しているかは、理解している。
紫霞は、踵を返した。
「宵兄を連れて退く。
影の長にも、そう伝える。」
徨紫は、紫霞の背に向かって言う。
「逃がすわけではありませんよ。」
「ええ、構わない。」
紫霞は振り返らず、手だけひらりと振る。
「いずれ――
本当に“女の戦い”をする日が来るでしょうから。」
徨紫は、思わず小さく笑ってしまった。
「そのときは、きちんとお化粧をしてから来てくださいね。」
「その余裕、覚えときなさい。」
紫霞の声が、闇の向こうへ消えていく。
徨紫は、その背を最後まで見送らない。
扇を閉じ、香炉の煙を一度、大きく吸い込む。
(宵霞、紫霞、影の長……
そして、その背後にいる黒蓮冥妃。)
北方部族連合の地脈が、まだ微かに震えている。
その震えを、徨紫は掌で押さえるように感じ取った。
「……白華殿。」
小さく名を呼ぶ。
「あなたを巡る“戦い”は――
まだ、始まりに過ぎませんよ。」
その言葉は、焚火の火と共に、
静かに夜空へ溶けていった。




