第十九章弐拾 瘴と牙の決着
夜が、裂けた。
黒い瘴が渦を巻き、宵霞の背後に“もう一つの夜”が立ち上がる。
それは煙ではない。霧でもない。
空間そのものが、腐蝕するように歪み、音も匂いも飲み込んでいく。
灰牙の喉が鳴った。
「……族長、来る。
あれ――」
黒牙は答えない。
答える代わりに、地を踏みしめる。
宵霞が、剣を正眼からわずかに崩した。
その所作ひとつで、瘴が“応えた”。
宵霞の声が、低く落ちる。
「禁域〈きんいき〉――《疫ノ深淵》」
剣身が、夜に溶けた。
否――溶けたのではない。
“拡がった”のだ。
刃の輪郭が溶出し、瘴と同化し、やがて宵霞の周囲に死の円環を描いた。
その内側は、呼吸そのものが毒になる。
音は濁り、光は沈み、気配さえ腐る。
「……っ」
黒牙は息を止める。
肺が拒絶する。
身体が、ここに在ることを拒む。
宵霞は、笑っていなかった。
愉悦も嘲りもない。
ただ、**“刃を振るう者の顔”**だった。
「踏み込めば、死ぬ。
引いても、死ぬ。
ここは——量る場所ではない」
剣が、割れた闇の底から持ち上がる。
それはもはや、鋼ではない。
疫の光が、刃の芯を走っていた。
灰牙が、歯を剥く。
「……だろうな。
なら——」
黒牙が、一歩、前へ出た。
「喰い切るだけだ。」
二人の動きが、**“同時”**になる。
黒牙は正面へ。
灰牙は、宵霞の影へ。
剣の間合いではない。
斧の間合いでもない。
**“獣の距離”**に、二つの影が滑り込む。
宵霞の剣が、疫の円環ごと振り下ろされる。
その瞬間——
黒牙は、斧を投げ捨てた。
斧が消え、拳が走る。
灰牙の短剣は、宵霞を斬らない。
宵霞の“立つ場所”を斬る。
短剣が地に突き立つと、夜が“割れた”。
黒牙の拳が、宵霞の鳩尾へ打ち込まれる。
同時に、灰牙の肘が脇腹へ。
連なって、黒牙の膝が胸骨へ食い込む。
――狼の連撃。
押すのではない。
打つのでもない。
噛み潰す。
宵霞の視界が、白く弾けた。
だが——
彼は、剣を離さない。
疫の光が、爆ぜた。
叩きつけられたのは、刃ではない。
**“病の嵐”**そのものだった。
瘴が、牙の間に突き刺さる。
肺が焼け、血が濁り、視界が腐る。
「……っ、が……!」
灰牙が吹き飛ばされる。
地に叩きつけられ、転がり——止まらない。
黒牙は、動かない。
動けない。
拳が、剣にめり込んだまま、
疫に喰われながらも、離さない。
宵霞が、呻いた。
狼の連携は——完成していた。
だが、疫もまた、完成していた。
互いの“完成形”が、ぶつかり合い——
そして、潰し合った。
宵霞の剣が、砕ける音がした。
剣そのものではない。
疫の円環が、音を立てて割れた。
同時に、黒牙の身体が、大きく弾かれる。
灰牙は、起き上がれない。
黒牙も、膝をついた。
宵霞は、剣を支えに立っている。
立っている、が——
半歩、踏み出せない。
血が、瘴に混じって滴る。
肩が、胸が、脚が——
すべて、壊れかけている。
黒牙が、低く笑った。
「……量れたかよ、冥将」
宵霞は、苦く、息を吐く。
「……噛み切られた」
灰牙が、地に伏したまま、笑った。
「……じゃあ、引き分けだな」
宵霞は答えない。
否——
答えられない。
再び剣を振れば、
己が砕ける。
黒牙が、ゆっくりと立ち上がる。
灰牙も、膝をつきながら、起き上がる。
三人は、満身創痍で向かい合っていた。
痛み分け。
だが、どちらも“勝っていない”ことで、
どちらも“負けていない”。
宵霞は、剣を杖にして、わずかに身体を預けた。
「……北は、易しくない」
黒牙は、牙の名残を血で濡らしたまま、答える。
「……だから、北だ」
三人の間に、夜が落ちる。
終わっていない。
だが、
ここは、終わった。
瘴は引き、牙は鳴り止み、
夜は——まだ、生きていた。
---




