第十九章拾玖 瘴気と牙の激突
夜が、裂けた。
瘴気は“煙”ではなかった。
それは霧のようで、液体のようで、そして――意志のようだった。
宵霞の剣を中心に、闇が渦を巻く。
いや、巻いているのではない。
吸われている。
空気が痩せ、音が死に、匂いだけが異様に濃くなる。
甘い。
腐りきる直前の果実のような匂い。
「……来い、黒狼の長。」
宵霞が剣をひと振りしただけで、瘴の流れが“刃の形”に整列した。
見えない。
だが、当たれば終わる。
黒牙は、構えを解かない。
呼吸だけを、研ぎ澄ます。
「……灰牙。」
「……了解。」
二人の視線が、交差する。
言葉は要らなかった。
役割は、すでに骨に刻まれている。
刹那――
宵霞が踏み込んだ。
剣は走らない。
世界が“切り取られる”。
黒牙の頬を、何かが掠めた。
音はない。
衝撃もない。
だが、皮膚が“冷えて”いく。
「……ッ!」
黒牙は後退せずに、前へ出た。
喉元へ再び来る“見えぬ斬撃”。
今度は、灰牙が割り込んだ。
短剣ではない。
彼は、宵霞の剣を素手で叩いた。
――愚策。
だが、彼は“覚悟”を貼り付けている。
瘴が、肌を焼いた。
皮膚が腐る音が、耳の奥で鳴った。
「――ッ、ぐ……!」
だが、止めた。
一瞬でいい。
黒牙は、その“一瞬”に、自分のすべてを叩き込んだ。
肩で、胸で、額で。
体ごと、宵霞へ体当たりする。
衝撃で、瘴の渦が歪む。
宵霞が、はっきりと後退した。
「……!」
その表情に、初めて“苛立ち”が浮かぶ。
「……人は、ここまでだ。」
「――人、か。」
黒牙は、唾と血を吐き捨てた。
「なら――」
握った拳から、血が滴る。
「俺たちは、獣だ。」
灰牙が、笑った。
痛みで。
怒りで。
そして――愉快そうに。
「人殺しに負けるほど、俺たちは“人”じゃねえよ……!」
二人は、同時に踏み込む。
足ではない。
地面を、掴んで飛ぶ。
宵霞の剣が、鋭く軌道を描く。
だが――
二人の動きは、剣術ではなかった。
“規則”を持たない。
“型”を持たない。
噛みつくためだけに、最短を選ぶ獣の軌道。
灰牙が、宵霞の脇腹へ体を滑り込ませる。
小刀ではない。
歯だ。
宵霞の外套の内側に、灰牙の犬歯が沈んだ。
瘴を帯びた血の味が、口内に爆ぜる。
「――ッ!」
宵霞が、低く息を吐いた。
同時に、黒牙の拳が顎を砕く。
打撃ではない。
叩き割る。
骨が鳴った。
不快な音で。
宵霞の視界が、白く跳ねた。
「……いい……」
それでも、笑う。
噛まれて、殴られて、血を垂らしながら。
「……その距離……」
宵霞の剣が、逆手に回る。
いままでとは違う。
人斬りの剣ではない。
殺し屋の剣に――変わった。
「……好きだ。」
そして――
瘴が、爆ぜた。
黒霧が、二人を包み込む。
世界が、白と黒に引き裂かれる。
灰牙の悲鳴が、瘴に溶けた。
「――灰牙!!」
黒牙は叫び、踏み込む。
頼りは、嗅覚。
音。
そして、己の“野”の勘だけ。
瘴の中で、刀の気配が走る。
その刹那――
黒牙は、空を殴った。
だが、拳は――当たった。
硬い。
確かに。
“そこに在る何か”を捉えた。
瘴が、揺れた。
黒牙は吼えた。
「来い……!!」
血まみれの顔で、牙を剥く。
「三度目だぞ、冥将……!」
宵霞の声が、瘴の奥から返る。
冷たく。
愉しげに。
「――その通りだ。」
影の中で、剣が持ち上がる。
「ならば――」
瘴が、凝縮する。
剣に、怨嗟のように。
拓かれた夜の裂け目に、冷たい光が差し込んだ。
「ここからが、本気だ。」
瘴気が、剣に溶ける。
刃は、もはや鉄ではない。
疫の光を帯びて、夜に浮かび上がった。
その剣を見た瞬間、
黒牙は――
笑った。
「……ちょうどいい。」
灰牙の声が、背後から微かに聞こえた。
「……族長……」
生きている。
黒牙は、振り向かない。
ただ、拳を握り直した。
「ここからだ。」
低く。
確かに。
「俺たちの“三度目”は――」
牙を剥く。
「喰い切って、終わりだ。」
瘴と牙が、再び激突する。
夜は、まだ終わらない。
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