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三華繚乱  作者: 南優華
第十九章
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第十九章拾捌 影の長vs赤鋼――名を捨てた者

赤鋼の斧が、空間ごと叩き潰すように振り下ろされる。


 影が歪み、ひしゃげ、爆ぜる。


 だが――消えない。


 七つに分かれていた影は、斬られ、潰されるたびに、また闇の中から“同じ顔”で立ち上がった。


「……斬れねぇ、か」


 赤鋼の額に汗がにじむ。  だが、膝は折れない。


 影の長は、その様子を静かに眺めていた。


「……なるほど」


 低く、どこか懐かしむような声。


「“正面から折れぬ”とは、こういう者を言うのだな」


 赤鋼は唾を吐く。


「講釈はいらねぇ。来るか、退くかだ」


 影の長は、答えない。


 ただ、次の瞬間。


 影が――沈んだ。


 それは“消えた”のではない。地面の影に溶けたのでもない。


 ――影そのものが、“存在の厚み”を変えた。


 空気が冷える。


 赤鋼は、無意識に斧を握り直す。


(……来る)


 直感が叫んだ。


 その瞬間、影の長の背後に――  

 一つの「景色」が、淡く重なった。


 夜の都市。 瓦屋根。 そして、燃えるような暗い空。


(……なんだ?)


 だがそれは、赤鋼の視界ではなかった。


 ――影の長の、記憶だった。



---



(……俺には、名があった)


 影の長の内側に、かすかな熱が灯る。


 誰にも語られず、 誰にも刻まれぬまま、 奥底で眠っていた言葉。


(かつては……第一線にいた)


 宵霞と、肩を並べていた日々。


 まだ“瘴冥将”と呼ばれる前の宵霞。まだ“幻冥将”になる以前の紫霞。


 そして―― まだ「影の長」と呼ばれる前の自分。


 黒龍宗の名のもとに、 柏林国へ忍び込み、 白陵国の城門を抜け、 蒼龍国の宵闇を駆け抜けた。


 “影”ではなく、 “刃”として。


 任務は単純だった。


 奪う。殺す。燃やす。


 黒龍宗の敵を、影ごと、抹消する。


 宵霞は剣で斬った。 紫霞は幻で騙した。 自分は――


 闇で“消した”。


 やり方は違えど、 目指す先は同じだった。


 黒き導師の声。玄冥導師。


 その言葉は、信仰であり、理であり、絶対だった。


(……あの頃は、それでよかった)


 命が積み重なろうと、城が焼けつこうと、


 任務が終われば、 ただ静かに影に戻る。


 それが、“正しい”と信じていた。


 だが――


 ある日。


 影の長は、 宵霞と共に本山へと呼び出された。


 玄冥導師と黒蓮冥妃。


 二人が並んで座する座。


 その場で告げられた言葉を、彼は忘れない。


「お前には、“影”になってもらう」


 冥妃の声は、炎のように艶やかだった。


「これからは、剣ではなく“影そのもの”として動いてもらうわ」


 そして――


 玄冥導師が、静かに言った。


「……名を、捨てよ」


 その瞬間、世界が止まった。


「影は、影であればよい。名は、刃だ。刃は折れる。  だが影は――折れぬ」


 導師の声に、感情はなかった。


「名を捨てるとは、過去を捨てること。欲を捨てること。己を、黒龍宗に溶かすことだ」


 冥妃が微笑んだ。


「あなたは“影”に向いているわ。……人よりも、自分を“消す”のが上手だもの」


 その言葉に、彼は――笑った。


 笑えてしまったのだ。


 名というものが、いつの間にか、空っぽになっていたことに、その時、初めて気づいてしまったから。


(……ああ、そうか)


(俺は、もう――)


(名に、戻れない)


 その日、彼は“名”を差し出した。


 血で刻んだ名ではない。墓にも刻まれない名。


 ただ、自分自身の中にあった “己である証”を。


 そして彼は、


 影の部隊を預かる者となり、今に至る。


 影の長。


 名を持たぬ者。


 ――存在そのものが、命令。



---




 赤鋼の斧が振り抜かれる。


 影の長は、現実へ戻った。


「……名か」


 ぽつりと漏れる声。


 赤鋼は、眉をひそめる。


「何、呟いてやがる」


 影の長は、ゆっくりと顔を上げる。


「――いや。思い出していただけだ」


「何をだ」


 影の長は、静かに告げた。


「……“戻れぬということ”を」


 その瞬間、  影が、再び動いた。


 だが今度は、“分裂”ではない。


 影そのものが、一つの“刃”のように、赤鋼へと叩きつけられる。


 空気が歪む。


 赤鋼は斧を構え、正面から受ける。


 衝突――


「ぐ……!」


 腕に、重みがのしかかる。だが、膝は折れない。


「……いい腕だ」


 影の長が、低く言った。


「名を持つ者は―― やはり、強い」


 赤鋼は笑った。


「……褒めてる場合じゃねぇぞ、影野郎」


「わかっている」


 影の長の声が、わずかに柔らぐ。


「……だが、惜しいと思っただけだ」


「何がだ」


「お前と……同じ側で刃を振るう世界を」


 一瞬の静寂。


 赤鋼は鼻で笑った。


「――悪いな」


 斧を構え直す。


「俺は北の鉄だ。影には落ちねぇ」


 影の長は、わずかに目を細める。


「……そうか」


 影が、濃くなる。


「では――」


 低く、断じる声。


「影は、刃を断つまでだ」


 再び、闇が蠢く。


 名を捨てた者と、名を背負う者。


 その激突は――まだ、決していなかった。



---

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