第十九章拾伍 紫霞―徨紫、幻と巫術
紫霞の瞳が、炎のように濃く紫に染まった。
それは燃える色ではない。
溶かす色――世界の輪郭を溶かす“冥”の光だった。
焚火が、ふっと揺れる。
否――揺れたのではない。
別の焚火が、重なって見えた。
炎の向こうに、さらに炎。
その奥に、さらに夜。
陣地が、何重にも“折り畳まれた”ように歪み始める。
徨紫は、足元へ視線を落とさなかった。
だが、煙の匂いが変わるのを感じ取った。
(……地脈が、撓んでいる。)
幻術ではない。
幻影ではない。
現実の縁が、削られている。
紫霞は、地を踏まない。
彼女は――世界そのものの裏側に、足場を取っていた。
「地に繋ぐ? 契る?」
紫霞が、くすりと笑う。
「なら、その“地”が裏返ったら――お前はどこに立つの?」
指先が、くるりと宙をなぞる。
その瞬間。
地が沈んだ。
焚火の炎が、底へ“落ちる”ように消え、
地面が、まるで水面のように揺れ動いた。
兵たちの悲鳴が、遠くで聞こえた。
近くで起きているはずなのに、まるで“別の世界”の声のようだった。
「……幻冥。」
徨紫は、扇を水平に構える。
「“見せる幻”ではない。
世界を“信じさせない”術か。」
「なるほど。」
紫霞の目が細められる。
「言葉が鋭い。
――だが、理解が早い者ほど、よく壊れる。」
風が、吹いた。
ただしそれは、吹き抜ける風ではなかった。
内側から、削る風だ。
耳鳴りのような音が、徨紫の頭蓋に走る。
自分の声が、自分のものではなくなる感覚。
意識が、わずかに“遠のく”。
(……詠唱を、折りに来ている。)
巫術は、地と呼吸と意志で紡ぐ。
ならば、その呼吸を乱せば、術は揺らぐ。
紫霞は、その本質を理解していた。
「さあ、北の巫女長。」
紫霞の背後に、もう一人の紫霞が立つ。
さらに、もう一人。
さらに、また一人。
――数えられない。
「お前の祈りは、何人まで貫ける?」
徨紫は、目を伏せない。
視線を逸らさず、むしろ――胸に手を置いた。
深く、息を吸う。
煙の匂いが、肺を満たす。
(……怖れ)
(……惑い)
(……それでも)
足元に、温度が戻る。
「……地よ。」
徨紫が、囁いた瞬間。
陣の“底”から、低い音が響いた。
地鳴りではない。
脈打つ音。
まるで、大地そのものが呼応するように。
「……契りは、切れぬ。」
徨紫は、扇を閉じる。
「私が巫である限り、
ここは私の“居場所”だ。」
周囲の幻が、一瞬だけ、震えた。
紫霞の笑みが、わずかに歪む。
「……へえ。」
そして、指を鳴らす。
その音と同時に――
徨紫の背後に、無音の刃が生まれた。
影でもない。
光でもない。
“切る意思”そのものが、形を持ったような存在。
徨紫は、振り返らない。
ただ――
扇を、背へ向けて振るった。
ひゅ、と乾いた音。
幻の刃が、散る。
空気が、はじけたように揺れる。
「……巫術で、思考を斬るとは。」
紫霞が舌打ちする。
徨紫は、ふっと息を吐いた。
「あなたは――
人の“見る”を壊す。」
「お前は?」
「私は――
人の“立つ場所”を守る。」
ふたりの視線が、正面から噛み合う。
幻と大地。
冥と契り。
どちらが勝るかは、まだ――決まらない。
だが。
この夜、確かにひとつの事実が生まれていた。
紫霞は、徨紫を“斬れなかった”。
徨紫は、紫霞を“祓えなかった”。
――互いに、互いを軽く見られる相手ではないと知った。
「……面白いわ、北。」
紫霞が、低く囁く。
「こんな地に……
こんな女がいるとは、思わなかった。」
紫霞の身体が、再び“ズレ始める”。
徨紫は、それを追わない。
追わないが――視線だけは、外さない。
「…幻冥将・紫霞。」
名を、呼び止める。
「この地を壊すつもりなら……」
一呼吸。
「あなたの“夢”ごと、引きずり出すわ。」
紫霞は、一瞬だけ、笑った。
それは冷たい嗤いではない。
楽しげな、戦の顔だった。
「……なら来なさい。
本物の“夢”を、見せてあげる。」
紫の影が、夜へと溶ける。
残されたのは、逆流していた香の煙と、
地の奥で鳴り続ける――低い脈動だけだった。
徨紫は、そっと地に手を置く。
(……まだ、終わらない。)
この戦いは、始まったばかりだ。
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