第十九章拾弐 三度目の闇
北の夜は、音が澄む。
焚火の爆ぜる音、革鎧が擦れる音、遠くで風が雪を削る音――それらが、やけに大きく響く夜だった。
黒狼族の本陣では、火の輪を囲む陣が、二重、三重に組まれていた。
白華は最奥、北方部族連合の“賓”として静かに座す。
護る意志は、もはや誰か一人のものではない。部族の矜持そのものが、彼女を守る“壁”になっていた。
そのとき――
「来る。」
黒牙の声は、低く、短かった。
だが同時に、灰牙が片膝をついて地へ手を当てる。
「……二つ、いや、三……。いや、違う。“重さ”が違う。」
その言葉どおり、夜気が歪んだ。
風が、裂けるように止まる。
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一、宵霞――黒牙・灰牙、迎撃す
最前線に“黒い影”が現れたとき、黒牙はすでに斧を抜いていた。
刃が夜を裂く――はずだった。
が、音がない。
斧は受けられた。
しかも――剣で。
「……ほう。」
低く笑う声。
闇の奥から、男の姿が前へ出る。
瘴冥将・宵霞。
その剣は、軽く、鋭く、しかし死角がない。
瘴気も毒煙もない。ただ――人斬りの剣が、そこにあった。
「黒狼族の長か。
思ったより……重い。」
「お前の剣が、軽いだけだ。」
黒牙は一歩、踏み込む。
大斧の一閃は、森を切り倒す勢いで宵霞を襲う。
宵霞は、受けない。
剣を滑らせ、斧の腹を弾き、体ごと流す。
斧が地へ叩きつけられた、その“隙”――
宵霞の剣が、黒牙の喉へ走る。
キン、と火花。
割り込んだのは灰牙だった。
「……族長一人で足りると思ったかよ、化け物。」
灰牙の短剣が、宵霞の剣をこじ開ける。
二対一。
宵霞は愉快そうに口角を上げた。
「いい。
三度目だ。測るには、ちょうどいい。」
次の瞬間、宵霞の剣速が変わる。
いや、「消える」。
影が、影を斬る。
黒牙は咆哮と共に斧を振るい、
灰牙は一歩も引かずに喉元を狙う。
斧と短剣と剣――
三つの刃が、嵐のように絡み合った。
宵霞は、押されている。
だが――崩れていない。
「……なるほど。」
宵霞が目を細める。
「北は、噛み砕けぬ。
ならば……噛み殺す。」
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二、紫霞――徨紫、幻と巫術
一方、陣の側面。
宵霞の影よりも深い闇が、地を這うように立ち上がる。
幻冥将・紫霞。
現れた瞬間、空気が変わった。
世界の輪郭が、わずかに歪む。
「……来たわね。」
徨紫は、扇を閉じた。
香炉の煙が、逆流する。
「北の巫女長……お前の夢を、折りに来た。」
紫霞の声と共に、景色が“ズレる”。
焚火が五つに増える。
黒狼族の戦士が、二人に見える。
夜空が、水のように揺れる。
「幻だ……!」
兵が叫ぶ。
「見破れるなら、破ってみなさい。」
紫霞の指先が、ひらりと舞う。
次の瞬間、風景が裏返る。
上だった空が、下になる。
地面が、天になる。
徨紫は、一歩も動かない。
――香を焚く。
「……“狭間”。」
徨紫の一言で、空間が“定まる”。
歪んだ世界の継ぎ目から、実像の紫霞が浮かび上がった。
「……っ!」
紫霞が、初めて目を見開く。
「巫術を……地脈に繋いでいる……!」
「北に生きるということは、
地と契るということ。」
徨紫は扇を開く。
「幻よ――帰れ。」
扇が一振り、
術式が“風”となって吹き抜ける。
幻が、剥がれる。
だが紫霞は、退かない。
「……いい。
なら、夢を焼き尽くす。」
紫霞の瞳が、紫に燃えた。
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三、影の長――赤鋼、鉄で応ず
中央。
陣を貫くように、黒い刃が迫る。
「――邪魔だ。」
淡々とした声。
影の長。
人の形をしているが、人ではない距離感。
赤鋼は、槌を地に叩きつけた。
「……来やがれ。
鉄で殴り潰してやる。」
影の長の刃が閃く。
赤鋼は受けない。
叩く。
火花が散る。
刃が、歪む。
影の長が初めて“後退”した。
「……北の鉄、か。」
「北の“意地”だ。」
赤鋼の槌が唸る。
「この“賓”は、
俺たちが選んだ。」
影の長の気配が、膨らむ。
「……では、
選んだ責任を――骨まで噛みしめろ。」
衝突。
刃と槌。
闇と鉄。
陣が揺れる。
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四、白華――「護られている」という現実
最奥で、白華は立ち尽くしていた。
見える。
聞こえる。
北が、戦っている。
それは“自分を護るため”だ。
胸が、詰まる。
「……この地は……」
言葉にならない。
だが――黒牙の声が、戦場の奥から届く。
「白華!
動くな。
北が、立っている。」
赤鋼の咆哮が続く。
「選んだんだ!
なら――守る!!」
徨紫の声が、風に混じる。
「恐れなくていい、白華。
これは……北の戦よ。」
白華は、深く、息を吸った。
握った拳が、震えない。
「……私は……」
声を、出す。
「……ここに、います。」
その一言が、
地を震わせた。
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三つの戦場は、まだ終わらない。
宵霞の剣は、
黒牙と灰牙を押し分けきれない。
紫霞の幻は、
徨紫の巫術に“噛み切られて”いる。
影の長の刃は、
赤鋼の鉄に止められている。
三度目の闇。
――だが、北は、折れていない。
そして、
この戦いは“終わらせない”。
闇は去らぬ。
だが――
奪えもしない。
北方の夜は、火を抱いたまま、
なお立っていた。
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