第十九章拾 北は、白を離さぬ
夜明け前の空は、鋼のような青を湛えていた。
黒狼族の本陣には、普段よりも多くの足音がある。
だが、慌ただしさはなく、すべての動きが静かで、正確だった。
北は――もう、知っていた。
黒龍宗は去っていない。
「退いた」だけだということを。
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黒牙は本陣の外、氷塊と岩を背に組まれた簡素な作戦卓の前に立っていた。
左右には赤鋼と徨紫。
背後には灰牙をはじめとする黒狼族の幹部たち。
そこに、赤鉄族・獅紫族の使者も合流している。
「――影どもは、散ったのではない」
黒牙の声は低かった。
「散った “ように” 見せただけだ。
北を試したのではない。
“測った” のだ。」
赤鋼が鼻を鳴らす。
「つまり、次は本気で来るってことか。」
徨紫は、静かに頷いた。
「ええ。
先ほどのは“手探り”です。
次は……狩りに来る。」
その言葉に、場の空気が一段と引き締まった。
灰牙が一歩前へ出る。
「族長。
貴客は――」
「――白華は、この地で客ではない。」
黒牙は思考を遮るように言った。
「我らが“選んだ者”だ。
そして、選んだ以上――北は、放さぬ。」
赤鋼は豪快に笑った。
「いいね。
この赤鉄族、護る戦なら骨が折れてもやる。」
徨紫は火の消えかけた香炉を手元に引き寄せ、煙の揺らぎを見つめる。
「……“名”は、もう北に根づきはじめています。
白華殿の存在は、知らぬところで、すでに火になっている。」
黒牙は短く頷いた。
「ならば、北は“火ごと”守る。」
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だが、そのとき。
帳の外から、哨戒兵の声が飛び込んだ。
「――南東の稜線に、異変!
風が……おかしい!」
黒牙は一瞬で上着を掴んだ。
「出るぞ。」
全員が、走る。
外へ出た瞬間、空気の異常がはっきりとわかった。
通常、北の風は冷たい。
だが、今吹いているのは――
“味のない風”。
冷たくもなく、暖かくもなく。
湿り気さえなく。
まるで――
感情の抜け落ちた空気が、地を舐めているようだった。
徨紫が、息を呑む。
「……来ています。」
「どこだ。」
「まだ……見えません。
ですが……」
徨紫の目が、かすかに揺れた。
「白華殿の“周囲”が、歪んでいる。」
その言葉とほぼ同時。
灰牙が叫んだ。
「――伏せろ!」
地面が、爆ぜる。
砂でも、雪でもない。
“気配”が、破裂した。
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影は、最初から“姿”を持たなかった。
黒い煙でもなければ、黒装束でもない。
“視線”として現れ――
“刃”となって降り注いだ。
斥候が一人、吹き飛ぶ。
「くっ――!」
赤鋼が即座に前へ出る。
「赤鉄、前へ!」
金属と肉のぶつかる乾いた音が、夜明け前に響いた。
同時に、獅紫族の呪術兵が詠唱を始める。
空間が歪み、影の輪郭が――初めて浮かび上がった。
人の形をしていない。
骨格だけを借りたような、不定形。
だが、そこに意思はあった。
“捕る”。
それだけの、単純かつ強烈な意志。
灰牙が牙の槍を叩きつける。
「北を、舐めるな!」
影は霧のように散るが、消えない。
代わりに――
増える。
「来るぞ、数を重ねてくる!」
黒牙は吼えた。
「徨紫!」
「もう張っています!」
結界が展開される。
風が“壁”となり、影を押し戻す。
だが、その瞬間。
結界の内側。
白華の背後――
ほんの、指一本分の距離に。
“別の影”が、立っていた。
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白華は、気づかなかった。
いや――
気づいていたのに、“それが影だと理解する前に”近づかれていた。
ふと、背中に――
羽織が、揺れた。
何者かの気配。
振り返る。
そこには――誰もいなかった。
だが。
空気が、“笑っていた”。
「……白華殿!」
徨紫の声が裂ける。
同時に、黒牙が飛ぶ。
影は――白華の“名”に触れようとしていた。
名は、存在の核。
奪えば、人は“人でなくなる”。
黒牙の剣が、影を裂く。
次の瞬間、影は弾け、消失した。
ようやく。
ようやく、白華は理解した。
――狙われている。
自分という存在が。
「……黒龍宗。」
その名を、白華は初めて
“自分の敵”として口にした。
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襲撃は、短時間だった。
だが、その短さこそが、黒龍宗の狙いだった。
逃げる。
測る。
印を打つ。
影たちは、再び霧のように掻き消えた。
だが――
何も得ずに消えたわけではない。
白華の“位置”。
北の初動。
守りの構成。
徨紫の術式。
すべて、持ち帰った。
だからこそ。
黒牙は、言い切った。
「次は、数では来ない。」
「質、ですね。」
徨紫が答える。
「……ええ。
“獲るための影”が来ます。」
赤鋼が歯を鳴らす。
「面白くねえ……が、好都合だ。」
黒牙は、白華を見る。
言葉はなかった。
だが――
その視線に “北の誓い” があった。
白華は深く頭を下げる。
「……ありがとうございます。」
黒牙は首を振った。
「礼はいらん。
もう――北は、お前を“客”と思っていない。」
白華は、目を上げる。
「それは……?」
黒牙は、静かに答えた。
「――守るべき、仲間だ。」
その言葉は、
火よりも、刃よりも――
白華の胸に深く、静かに落ちた。
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北の空は、明けきらない。
だが。
凍えた地の奥で――
白き花は、確かに根を張り始めていた。
黒龍宗が狩りに来るならば。
北は――戦場ごと、盾になる。
白を、離さぬために。
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