第十九章捌 蒼龍と金城の降伏の席
降伏の使者が去った翌朝、蒼龍軍の陣地は静かだった。
前夜まで戦の匂いで満ちていた天幕の列には、今や火の粉も剣鳴りもない。あるのは、風と砂と、そして“決着を迎える朝”だけだった。
天鳳将軍の大幕は、陣地の中でもひときわ静謐な気配を纏っていた。
入口の帳が上がると、蒼龍軍の兵が短く告げる。
「金城国、大将軍――嶺昭、来訪。」
天鳳は応えた。
「通せ。」
すぐに、帳が割れ、金城国の一行が姿を現す。
先頭に立つのは、嶺昭。
多くを語らず、深く礼をするその姿には、敗将であると同時に、なお折れぬ“責任の背骨”があった。
広く取られた幕の中央には、簡素な机が一つ。
その両側に椅子が置かれ、対面の席として用意されている。
天鳳が先に座り、対する形で嶺昭が腰を下ろす。
天鳳の背後には、黒刃の将に最も近しい二人が立っていた。
曹華と雷毅。
警護であると同時に、この席が“戦の続きを孕んだ場”であることを示す存在でもあった。
短い沈黙が、まず落ちる。
それを破ったのは、嶺昭だった。
「……敗けは、敗けだ。」
低く、重い声。
「武では――貴国に届かなかった。」
天鳳は何も言わず、嶺昭を見つめた。
その沈黙は、威圧でも揶揄でもない。
“話せるだけ話せ”と告げるような、静かな受容だった。
嶺昭は続ける。
「だが――民だけは、救いたい。」
一瞬、天幕の空気が張る。
降伏の場で、“願い”を先に出すのは、賭けだった。
だが嶺昭は、賭けた。
天鳳は問い返さない。
代わりに静かに言った。
「……降る、という言い方ではないな。」
嶺昭は視線を上げる。
「?」
「“責任を負って、ここに立つ”――
その顔だ。」
天鳳の言葉は、叱責でも称賛でもなかった。
ただ――見抜いた、という響きだけを持っていた。
嶺昭は、一瞬だけ唇を噛む。
それは、武将が“見透かされた”ときの、苦さだった。
「……不器用で、迂闊でした。」
「否。」
天鳳は短く言い切る。
「不器用というのは、退かぬ者につく名だ。
そなたは……退いて、負う者だ。」
ふっと、嶺昭の口元が緩む。
それは勝者に向ける笑みではなかった。
ようやく“武人として見られた”という、安堵だった。
協議は、淡々と進められた。
まず――停戦。
次に、金城国軍は武装を解き、王都は無血で開城すること。
蒼龍国は金城国を併呑しない。
金城国は存続し、蒼龍国の属国として扱われる。
最終的な裁可は泰延帝に委ねられるが、天鳳は方針として告げた。
「我らは、土地を欲してこの戦をしたわけではない。
敵意の発端を断つ――それが目的だ。」
嶺昭は、深く頭を下げた。
「……謝意を。」
そこで、天鳳は机に指を置いた。
「――だが。」
場の温度が、変わる。
「一つ、問うべきことがある。」
嶺昭は、顔を上げる。
「黒龍宗だ。」
その名を聞いた瞬間、嶺昭の肩が、わずかに揺れた。
天鳳は続ける。
「そなたの陣に、“彼ら”が入り込んでいた。
炎術師の部隊――
そして、女。」
嶺昭は、しばらく黙したまま、
やがて、低く言った。
「……黒龍宗の女――」
声が、震える。
「……あれが現れてから、すべてが狂いました。」
曹華の背中に、わずかな緊張が走る。
嶺昭は、独白のように続けた。
「“蒼龍は折れる”と。
“南は乱れ、白陵は割れ、北は揺らぐ”と。
そう囁かれ……我らは、信じてしまった。」
天鳳が、静かに問う。
「――操られていたと、思うか。」
嶺昭は、ゆっくりと頷いた。
「……ええ。
気づけば我らは、“戦っている”のではなく――
踊らされていたのかもしれない。」
その言葉に、曹華は胸の奥が冷えるのを感じた。
自分たちと同じ――いや、違う形で、同じ影に踏み込んでいた国家。
雷毅が、低く息を吐く。
天鳳は、しばし黙したのち、言った。
「その“女”と、黒龍宗について――
そなたの知ることは、すべて記せ。」
「……承知。」
嶺昭は頷いた。
「私は、敗将です。
だが――この戦に火を投じた者がいるのなら、
その名を、残して去ります。」
天鳳は、静かに受けた。
「それでよい。」
協議は、そこでいったん区切られた。
天鳳が、帳の外に待つ兵に合図を送る。
「嶺昭将軍を――賓として案内せよ。」
“囚”ではない。
“敵”でもない。
“客”――そして、“責任を負って立った将”としての処遇。
嶺昭は、深く一礼した。
天幕を出る、その直前。
ふと、嶺昭は立ち止まった。
天鳳の背後に立つ曹華を見る。
「……あなたは、“紫電”か。」
曹華は、まっすぐに見返した。
「私は――蒼龍の将です。」
嶺昭は、苦く、それでもどこか安らかな微笑を浮かべた。
「ならば……まだ、この大陸は、折れておらぬな。」
そう言って、出ていった。
帳が閉じる。
天幕に、再び静けさが戻る。
雷毅が、小さく言った。
「……終わった、か。」
天鳳は答えない。
代わりに、低く告げた。
「――いや。」
曹華は、天鳳の横顔を見る。
その眼は、遠くを見ていた。
「“黒龍宗”という戦は、
これからだ。」
天鳳の言葉が、砂の中に重く落ちる。
降伏の席は終わった。
だが――
本当の戦は、ここから始まろうとしていた。
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