第十九章肆 赫の影、白陵の胸奥に
白陵宮の夜は、静かすぎた。
風は吹いているはずなのに、庭の木々は音を立てない。
水盤の水面も、月の影を映すだけで、さざめきひとつ見せなかった。
まるで、世界そのものが息をひそめているかのようだった。
興華は、夜の訓練場に立っていた。
今日も華稜皇子とともに木剣を交え、汗を流し、息を整え、
そのあとに、ひとり残って素振りを続けていた。
(……静かすぎる)
理由は、わからない。
だが胸の奥が、ひそやかに、そして確かにざわめいていた。
冷える、という感覚とは違う。
熱くなるわけでもない。
ただ、何かが“触れようとしている”。
木剣を打ち振るう。
風を切る音が、空に消える。
その音が、あまりにも遠く感じられた。
――誰かが、見ている。
根拠はない。
だが、その確信は、背中をなぞるように広がっていった。
(……姉上……)
白華。
北にいる、最愛の姉。
(……曹華姉……)
蒼龍にいる、もうひとりの姉。
二人はいま、ここにはいない。
白陵宮で、興華だけが――残されている。
その事実に、はじめて“孤独”という名が付いたような夜だった。
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同じころ。
白陵宮の別の場所では、異変に気づく者がいた。
清峰宰相は、政務の書を広げていた指を止める。
(……紙が、鳴った?)
音など、していないはずだった。
だが確かに、書の頁が――意思を持ったように、ひとりでにめくられた気がした。
「……風、か?」
だが窓は閉じている。
夜気の流れは、感じられない。
霜岳大司徒もまた、香を焚く手を止めていた。
(……香の煙が……逆流した?)
確かに、風向きに逆らうように、煙がわずかに「戻った」。
偶然か。
それとも――
二人は、顔を上げ、
なにかしら、視線を交わした。
言葉にはしない。
だが、同じ“違和感”を覚えていることは、直感的に伝わっていた。
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一方――
興華の背後に、影があった。
だがそれは、壁に映る影ではない。
人の形を持たず、
黒とも呼べぬ、色のない“揺らぎ”。
近づかない。
近づけない。
だが――触れようとする。
興華の首筋の、ほんのわずか先で。
空気が、震えた。
見えない指先が、
霊力の「輪郭」に、そっと触れる。
その瞬間。
白陵宮の地が――わずかに鳴った。
音ではない。
振動でもない。
“気配の変化”。
宮殿に張り巡らされた霊脈が、
ごく微かに、だが確実に――“揺れた”。
術に通じる者でなければ、決して気づかない。
だが、その変化は確かに起きていた。
影は、読み取る。
血。
霊力。
位相。
脈動。
――適合、極めて高し。
だが、まだ触れない。
まだ奪わない。
ただ、測る。
“器”としての密度。
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そのとき。
「興華!」
聞き慣れた声が、夜を裂く。
華稜皇子だった。
訓練場の入口に立ち、興華を呼んでいる。
「……風が冷える。
今日はここまでにしろ。」
その声で、興華ははっと我に返った。
「……はい。」
木剣を下ろし、振り向いた――その瞬間。
影は、消えていた。
最初から、存在しなかったかのように。
華稜皇子は、知らず、興華の肩に手を置く。
「……最近、無理をしている。」
叱るような声音ではなかった。
心配する――それだけの目だった。
「白華殿もいないのだから、
もう少し、休め。」
興華は、言葉を返せなかった。
(……心配してくれている)
それが、胸に沁みた。
「……ありがとう、華稜。」
その名を、はじめて呼び捨てで呼んだ。
華稜皇子は、驚いたように目を見開き、
そして、ほんの少し――照れたように笑った。
そして、歩調を合わせて夜の回廊を進む。
知らないあいだに。
興華は、庇われる側に立っていた。
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その夜。
白陵宮の一角、静かな部屋で――
黒蓮冥妃は、目を閉じていた。
影からの“報告”が、
言葉ではなく、感覚として流れ込む。
――赫の器。
――極めて純。
――血脈、正統。
――中枢に近し。
冥妃の唇が、わずかに歪む。
「……やはり。」
興華は、“器”として完成度が高すぎた。
これを殺す、などという選択は――
すでに存在しない。
(白華は“光”。
曹華は“刃”。
そして――)
冥妃は、静かに息を吐いた。
(興華は、“核”)
だから――
壊すのではない。
守るのでもない。
“奪う”。
「……三つが揃えば、龍脈は目を覚ます。」
黒蓮冥妃は、微笑む。
その笑みは、どこまでも優しく、
どこまでも冷たかった。
「さあ……世界は、ようやく“動き方”を思い出し始めた。」
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白陵宮に、何かが忍び寄っている。
まだ、誰も気づかないほどの速さで。
だが確実に、深く、静かに――。
そして、興華の胸の奥で。
はじめて、
“赫の鼓動”が、微かに鳴った。
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