第十八章拾肆 赫の影は揺らぎ始める
白陵宮の空気が、ゆっくりと変わり始めていた。
外から見れば、何も揺らいでいない。
門は固く閉ざされ、政は整然として進み、氷陵帝の威光は揺るぎない。
だが――
その奥で、ごく微細な“流れ”だけが、かすかに震えていた。
それを誰も知らない。
いや、ほとんどの者には“感じられなかった”。
ただ一人、興華だけを除いて。
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「はっ……!」
木剣が空を裂いた。
興華の呼吸はまだ荒い。
だが、間合いの取り方も、足の運びも、以前の彼とは明確に違っていた。
「興華、腕が上がったな。」
華稜皇子が微笑む。
白陵国の皇子であり、興華と同じ年。
誇り高く、誠実で、真っ直ぐな人物。
興華は木剣を肩にかけ、少し照れくさそうに息をついた。
「……白華姉上がいれば、もっと褒めてもらえたでしょうか。」
「……白華殿は。きっとそうだな。」
「……はい。」
笑顔を浮かべながらも、その目はかすかに沈んでいる。
白華が北に旅立ってからというもの、
興華の胸の奥には、ぽっかりと空いたような穴があった。
心細さ。
寂しさ。
恐れ――。
姉がいない世界は、こんなにも広かったか、と初めて思い知る。
それでも、前へ進まねばならない。
だから興華は、毎日の鍛錬にさらに身を入れていた。
華稜皇子が木剣を構え直した。
「もう一度、続けるか。」
「……はい!」
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一方そのころ――
白陵宮の政務殿。
清峰宰相はふと、机の上の巻物が揺れたのに気づいた。
風はない。
窓も閉じている。
「……地の霊脈が、震えた?」
霜岳大司徒も、同じ頃、香炉の煙の流れが逆流したことに眉をひそめた。
「……不吉ではないが、静謐ではない。」
白陵宮は古来より“霊脈の流れ”に建てられた城。
だからこそ、霊脈の変化には誰よりも敏感だ。
二人にはまだ、それが何を意味する変動かまでは読めない。
だが――
「これは……宮中のどこかで“大きな力”が動いた時の揺れに似ている。」
清峰宰相はぽつりと呟く。
「しかし心当たりが……」
霜岳大司徒は目を細める。
(この揺らぎ……人為ではない。
ならば自然……いや――)
結論には至らない。
それほど微細な揺らぎだった。
だが白陵の古き術者たちだけが
“変化の初動”を皮膚感覚として察し始めていた。
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その原因となったのは――
訓練場で木剣を振るう興華の背を、かすめた瞬間のことだった。
(……?)
興華が、振り返る。
誰もいない。
だが、確かに風が通った。
いや、風ですらない。
“気配”とも違う、しかし触れられたような――
そんな奇妙な震え。
(……白華姉上? 違う……これは……)
華稜皇子が近づく。
「どうした、興華?」
「……いえ。少し、背筋が冷えただけです。」
「体を冷やすな。戻ろう。」
興華はうなずきながらも、胸の奥のざわめきを抑えられなかった。
そのざわめきは、やがて“鼓動”へと変わる。
小さいが、深い。
心臓ではなく――霊の中心が脈動するような感覚。
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白陵宮の外れ。
誰もいない“はず”の廊下に、
影が一つ、揺らめいていた。
黒衣の人影ではない。
形を持たぬ、黒い風。
音もなく、息もなく。
ただ滑るように通路を移動し――
訓練場へ向かう。
そこには、興華がいた。
影は距離を置いたまま、
伸ばすように手をかざす。
風も光も乱れない。
興華には見えない。
ただ――
興華の霊力だけが、ざわりと震えた。
影は静かに呟く。
「……これが、“赫”。」
興華の霊の波は、柔らかなのに鋭い。
触れれば切れるが、抱けば溶ける。
まさに“器”の核。
影は、それを記憶し、残さず回収した。
まるで風が抜けるように、影は消えた。
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冥府殿。黒い蓮をかたどった幕の奥で、
黒蓮冥妃は静かに目を開いた。
影からの報告が、魂に流れ込む。
興華の霊力。
その“赫”の輝き。
「……興華は“器”そのもの。」
冥妃の唇がゆるく笑む。
「白華と曹華を殺し、興華の心を壊す……それも一案だったけれど。」
長い指が、影の縁をなぞる。
「三つが揃う時――“龍脈”は開く。」
白華の“名”。
曹華の“武”。
興華の“器”。
「ならば、奪い取ればいい。」
声は低く、美しく、残酷だった。
「壊す必要など、なくなったのだから。」
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その頃――興華は、胸の奥に残ったざわめきを、自分で説明できずにいた。
(あれは……なんだったんだろう。)
ただの冷気ではない。
誰かに見られたような、触れられたような気配。
華稜皇子が肩に手を置く。
「興華。無理をするな。」
「……はい。」
声は落ち着いている。
しかし胸の内側では、何かがゆっくりと膨らみ始めていた。
呼吸に合わせて脈打つ、見えない“赫の波”。
それはまだ弱い。
興華自身も、それがなんであるのかわからない。
だが――
白華と曹華の二人に対する想いが、
この赫の波の核を刺激している。
焦がれるような再会の願いが、
興華の内で静かに火を点し始めていた。
その火が、白陵の霊脈へ――
ほんのわずかだが、確かに影響を及ぼし始めていることに、
まだ誰も気づかない。
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黒い影は消えた。
だが余韻はなお、白陵宮の石壁に潜んでいる。
興華の中で、
“器”が震えた瞬間だった。




