第十八章漆 紫電、王都に迫る
赤い日輪が西へ傾き、金城国の王都・金燈城の城壁は、沈みゆく光を浴びて鈍い金色に染まっていた。その色は、栄華の輝きではない。
敗北の色だった。
城壁の下には、避難民の列。
門前では、兵士たちが震える手で矢を番えながら、東方――蒼龍国側の地平を睨んでいる。
そこから迫るのは、もはや噂でも影でもない。
確固たる現実として押し寄せる。
蒼龍国第一軍団、第二軍団――。
そして、その先頭に立つ“紫電の曹華”。
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大将軍・嶺昭は、王都外縁の丘に馬を止めた。
その甲冑には、国境戦から続く退却の跡が深く刻まれている。
肩の傷はまだ癒えておらず、包帯の上から血が滲んでいた。
「……押せば崩れると言ったのだぞ。黒蓮冥妃は。」
歯噛みしながら、嶺昭は東方の空を睨む。
黒蓮冥妃の囁きは甘かった。
蒼龍は三正面戦を抱えて疲弊し、金城が押せば均衡は瓦解すると。
だが現実は――逆だった。
「何だ……あの娘は。」
嶺昭の脳裏を、戦場で見た光景が何度もよぎる。
紫の鬣をなびかせる馬。
その背に乗り、一閃ごとに電光のような軌跡を刻む女。
「……紫電の曹華。あやつ一人で、何百を散らした。」
朱烈の炎でさえ呑まれざるを得ない。
あの娘は、戦場の“流れ”そのものを変える力を持っていた。
「黒蓮冥妃め……。儂に“炎”を与えたと言ったな。」
嶺昭の唇が歪む。
「だが、その火は我らを焦がすばかりではないか。」
王都は、すでに籠城の準備に入っていた。
臣下たちは震え、王族たちは混乱している。
もはや逃げ場はない。
金城は東から食い破られ、王都に追い詰められた。
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夕焼けに染まる平地を、蒼龍国 第一軍団の軍旗が翻る。
青龍を象った旗が、風に大きくはためくたび、兵士の士気は高まり――
金城国兵士の膝は震えた。
「前衛、突撃準備! 雷毅、南側から回り込め!」
天鳳将軍の怒号が轟き、全軍が一斉に動き出す。
天鳳の戦気は鋭く、黒刃はまだ炎をまとったまま。
朱烈との死闘の余韻が、身体の芯から熱を漏らしている。
しかしその熱は弱さではなく、強さとして兵を導いていた。
「第一軍団、進め!」
「第二軍団、右翼を押し上げろ! 背を見せるな!」
軍勢は圧倒的だった。
金城国の防衛線は、すでに王都の外郭に引き下がり、反撃力を失っている。
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そして。
蒼龍軍を突き動かす最大の衝撃は――
曹華の存在だった。
彼女は紫叡を駆り、夜気を裂くように前線を疾走する。
紫叡の四肢が踏むたび、地が砕け、砂塵が渦を巻く。
その中央を、曹華の黒い髪が風に流れ、瞳は雷光のように光った。
「――退くなら退けッ!」
曹華の叫びは、兵を恐怖させるためではない。
ただ前を拓くための声だった。
だが金城兵にとっては、
死の宣告に等しかった。
「来るぞ……! あれが……紫電……!」
「ひ、一太刀で……何人も……!」
「無理だ! 止められん!」
金城軍の前列は崩れた。
盾が割れ、槍が弾かれ、兵士たちは恐慌のまま左右へ逃げ散る。
曹華は、それを追わない。
ただ王都へ向かって一直線に走る。
(姉上……興華……)
胸の奥から、何かが燃え上がる。
黒蓮冥妃の言葉で知った、姉と弟の生存。
(会いたい……。
まだ……会えるなら……)
焦りでも、怒りでも、復讐でもない。
ただ――再会の渇望が、曹華を加速させていた。
その渇望が、紫叡の脚へ伝わる。
「――紫叡ッ!」
踏み切った瞬間、紫叡の脚が地を撃ち抜いた。
その跳躍はまるで雷の走り。
兵たちの視界に光が走り、次の瞬間には曹華の槍が鉄柵を斬り裂いていた。
紫電——。
それは蒼龍軍の士気を支える象徴であり、
金城国の心を折る稲妻だった。
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王都の外門に押し寄せる民衆の悲鳴が響く。
「門を閉めるな! まだ百人は外にいる!」
「もう無理だ! 蒼龍軍が来てしまう!」
兵士たちは命令に従いつつも、決断を迷っていた。
そのとき――
「……来るぞ。」
門兵の一人が、東の影を指差した。
夕闇の向こう、風を切り裂きながら、紫の馬影が迫る。
「紫電の……!」
「来た……! 門を閉めろ!」
「閉めたところで意味があるか!? あれは壁を登るぞ!」
動揺と恐慌が渦巻いた。
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前線から天鳳の声が轟いた。
「曹華! 深追いするな! 王都の門で止まれ!」
曹華は一瞬だけ速度を緩めた。
(……天鳳将軍。)
彼女は、ただ前へ進みたかった。
姉弟への道を切り開くように。
けれど、天鳳の声は揺らぎを止めた。
(……私は、蒼龍軍の刃だ。)
曹華は紫叡の手綱を引き、王都門前で馬を止めた。
その姿を、金城兵も民も固唾をのんで見守る。
沈黙。
風が吹き抜ける。
曹華はただ、まっすぐ立つ。
その姿ひとつが、王都の戦況を決めていく。
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丘の上で様子を見ていた嶺昭は、拳を震わせた。
「……このままでは王都が落ちる。」
黒蓮冥妃の「囁き」を思い出す。
『蒼龍は弱っている。
押せば崩れる。
金城が勝つ。』
それはすべて、偽りだった。
いや――金城ではなく、嶺昭を崩すための言葉だったのだ。
「冥妃……貴様……!」
嶺昭は唇を噛みしめた。
(まだ……終わっていない。籠城か、降伏か……決めねばならん。)
その決断は、金城国の命運を左右する。
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蒼龍の曹華、紫電の刃。
北方の白華、火囲む議場にて立つ者。
そして白陵の興華、影に狙われながらも歩みを止めない。
三つの道は遠く離れ、互いに見えない。
しかし――
すべては同じ中心へ向かって進み始めていた。
誰も知らぬ大いなる渦。その始まりとして。
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