第十八章参 紫電の刃、金城を裂く
砂塵は夜明けの風に乗り、赤く染まった空へ薄く舞い上がっていた。
金城国の前線が崩れ、後退し、そして――逃げ始めたのは、つい数刻前のことだ。
だが、それで終わりではない。
蒼龍国軍は追う。
押し返すのではなく、戦をひっくり返すために。
その先頭に立つのは、天鳳将軍でも、朱烈でもない。
――曹華と紫叡だった。
◆
紫叡が地を蹴るたび、土が爆ぜ、空気が裂けた。
走っているだけではない。
疾る、閃く、突き抜ける――まるで雷光のように。
(生きている……二人とも。)
胸の奥に燃えるのは、炎ではない。
燃えすぎて砕けるような熱ではなく、
押し殺した叫びがようやく息を得たような、震える光だ。
姉――白華。
弟――興華。
ずっと、生きていると信じてきた。
しかし同時に、
“もしどこかで死んでいたらどうしよう”
という恐怖を抱え続けてきた。
その矛盾を抱えた胸に、冥妃はあまりにも容易く真実を落とした。
『――二人は、生きているわ。』
その一言で、
胸の底の何かが弾け、光になって走り出した。
紫叡の気配も変わった。
肩の筋肉が波打ち、息が空気を引き裂き、
蹄が地面を踏むたび、紫の光が散るようにさえ見える。
曹華の鼓動は、紫叡のそれと同調し始めていた。
(私は、走れる。
――今なら、どこまでも。)
砂塵の向こうから、金城兵の叫び声が聞こえた。
「来るな……来るな……!
“紫電”だ……あれは蒼龍の――!」
「化け物かよ……あれが人間の速さか……!」
恐怖は、伝染する。
蒼龍軍が撃ち崩されていたとき、金城兵は誇りを持っていた。
だが今、
戦場に響くのは恐怖と混乱の匂いだけだった。
「曹華!」
雷毅の声が後方から伸びた。
彼は第一遊撃隊の指揮をとり、曹華を追って迫っている。
「前は任せろ! お前は貫け!」
「わかってる!」
短く返し、紫叡の腹を軽く蹴った。
紫叡の身体が伸び、
その走りは――まさに雷の線そのもの。
(姉上……興華……)
(私は、ここで止まらない。)
(再び、三人で並ぶために――)
◆
金城国軍は、国境から二十里ほどの地点で陣を再編しようとしていた。
だが、その試みも遅かった。
蒼龍軍第一軍団の後詰めが追いつき、
さらに第二軍団の旗が遠くに見え始める。
金城国の士気は、砂のように崩れつつあった。
「……あれが“紫電”か。」
金城国軍副将が、震えた声で呟いた。
戦場の中央を駆け抜ける影――
馬上で槍を振り抜き、
敵兵を薙ぎ、貫き、
まるで風そのものを斬るような軌跡。
そのすべてが、紫色の残光の帯を引いていた。
◆
「止めろ! 止めてみろ!
あいつさえ止めれば前線は保て――!」
金城の隊長が叫んだ瞬間、
曹華はその前にいた。
視界に捉えた敵の刃は、まだ下ろされていない。
だから曹華の槍が、先に敵の呼吸を断った。
切り裂いた音は小さく、
だが確実に戦場を分ける境になった。
紫叡が跳ね、着地した瞬間、
曹華は次の敵へ槍を突き込み、
打ち払う。
顔を上げれば、敵は後退していた。
視線を向ければ、敵は怯んでいた。
紫叡が一声嘶くと、
その声が戦場全体の脈を変える。
雷毅たち遊撃隊が波のように押し寄せ、
第一軍団がその背後を押し出し、
蒼龍軍は完全に“攻勢”の形となった。
◆
「金城軍、退いていくぞ!」
「勝てる……勝てるんじゃないか!?」
蒼龍兵たちの鼓動が高まり、
声が強くなる。
曹華は、その波の中心にいた。
(私は、燃えない火。
でも――光にはなれる。)
砂を切り裂きながら、曹華は呟いた。
「――紫電。」
誰かが名づけた。
この戦場がつけた名。
私の名ではない。
だが、それは私の“今”を表す色だった。
紫叡の走りがさらに伸びる。
敵陣の横腹へ回り込み、
隊列を崩し、
後方を混乱させ、
それを遊撃隊が正面から叩く。
圧倒的な速度と連携が生まれていた。
「退け! 退け!
国境線まで下がれ!
本陣を固めろ――!」
嶺昭は後方から怒号していたが、
兵は振り向く余裕もなく走っていた。
兵が逃げれば、隊が崩れる。
隊が崩れれば、戦は瓦解する。
金城軍の敗走はもはや時間の問題だった。
◆
砂塵の向こうに、金城国の都――金燈へ続く道がうっすらと見え始めた。
曹華は槍を握り直す。
(ここから先は――国を裂く。)
(でも、それが道なら、私は進む。)
紫叡が静かに首を振り、歩幅を整えた。
曹華は息を吐く。
「行こう、紫叡。」
紫叡が嘶き――走り出す。
その瞬間、
蒼龍軍全体が、もう一度前へ動いた。
「紫電の曹華が抜けたぞ!」
「続け! 第一軍、押し込め!」
「金城軍を金陵まで追い返すぞ!」
戦場は、
**紫の閃光が切り拓いた“勝ち筋”**を
そのまま形にし始めた。
――金城国の戦況は、
この日を境に完全に傾いた。
━━




