第十八章弐 火と鉄の前に立つ
夜が明けた。
白華が北の大地に踏み込んで三日目。
黒狼族の本陣に掲げられていた月旗はすでに片づけられ、代わりに――
北方の三つの紋が並んで翻っていた。
黒狼の双牙、赤鉄の環、獅紫の焔。
それらが横にそろって立つと、この地はすでにひとつの巨大な「議場」だった。
白華はそこへ、自らの足で向かっていた。
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冷気が、白い息を細くのばす。
雪嶺山脈から吹き下ろす風は容赦がなく、衣服の隙間に鋭い刃を滑らせるようだった。
白華は馬・清影の手綱を凍昊に任せ、ただ一人、円陣の中央へ歩き出した。
黒牙が待っていた。
黒狼族の男たちは多くを語らない。
だがその沈黙は、軽く見れば飲み込まれる。
白華はそれを理解していた。
「白華。」
黒牙が名を呼ぶ。
「北の大地には、火が二つある。」
「……二つ。」
「一つは、焚かれた火。
もう一つは――立つ者が持つ火。」
黒牙は、白華を真正面から見つめた。
「お前が来た理由を、俺はまだ問わぬ。
まずは、“立てるか”を見たい。」
その言葉こそ、黒狼族の「試し」だった。
刀も槍もいらない。
問うのは覚悟そのもの。
白華は静かに頭を下げた。
「立ちます。
この大地の上に、白華として。」
黒牙の瞳が、わずかに揺れた。
試しは、それで終わった。
怒号も、戦も、即座の結果もない。
北の狼は、言葉を削り、意志だけを見る。
(……まず一歩。)
白華は、胸の奥で、微かに息を継いだ。
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次に呼ばれたのは、赤鉄族の陣だ。
地面に敷かれた鉄板が、踏みしめるたび低い唸りを返す。
その中心で巨大な炉が唸っていた。
鉄を打つ音が絶えず響き、空気そのものが赤い。
(熱い……。)
白華は思わず息を吸いなおした。
雪原の世界とは逆の、灼ける熱。
しかし彼女は怯まない。
赤鋼が腕を組み、仁王のように立っていた。
「白華。
北方にとって鉄とは、武器ではなく骨だ。」
「骨……。」
「折れれば死ぬ。
曲がれば使い物にならん。
だが――熱があるうちは鍛え直せる。」
赤鋼は炉から取り出した赤鉄の短刀を掲げた。
「触れてみろ。」
白華は迷いなく手を伸ばした。
ただし――刃ではなく、柄に。
赤鋼が動きを止めた。
周囲の鍛冶たちが思わず目を見張る。
「刃に触れないか。」
「刃は……意志の証。
許しなく触れてはならないと学びました。」
「……なるほど。」
赤鋼は喉の奥で笑った。
「白華。
お前は鉄を知らぬ。
だが、“扱う理由”を知っている。」
それは赤鉄族なりの最大の評価だった。
炉の熱が、白華の頬を赤く染める。
だがその目は揺れなかった。
(私は、火にも鉄にも焼かれない。)
(焼かれても――立ち続ける。)
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最後に白華が迎えられたのは、獅紫族の大幕だった。
紫煙の香が漂い、他の部族とは明らかに空気が違う。
一歩入るだけで、世界の色が変わるような静謐さ。
その中心に、徨紫が座していた。
彼女は白華を見るなり、小さく微笑んだ。
「ようこそ。
白華殿。」
白華は深く礼をする。
「徨紫族長。お目にかかれて光栄です。」
徨紫は首を振る。
「敬意は受け取りましょう。
ですが、ここでは“心”を見せてください。」
「心……。」
徨紫は白布を一枚取り、白華の前に差し出す。
「この布に、“いまの白華殿”の色を落としてみて。」
「……色?」
「言葉でも、息でも、沈黙でも。
布が受け取ったものを、私は読みます。」
白華は白布を両手に受け取った。
その中央に、そっと指を添える。
力を込めず、ただ触れる。
すると――
布の一点だけ、淡く、微かに金が差した。
徨紫の瞳がわずかに揺れた。
「……光。」
白華は驚き、布を見つめる。
「これは……?」
「嘘のない色。
強さと静けさの間にある、道の色。」
徨紫は穏やかに笑った。
「白華殿。
北はあなたを拒まない。
あなたが影でない限り。」
白華は深く頭を下げた。
「影であるつもりは、ありません。」
「ええ。
その色が証です。」
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夕刻。
白華が本陣に戻ると、黒牙、赤鋼、徨紫の三人が並んで立っていた。
黒牙が言う。
「白華。
三つの“火”は、お前を拒まなかった。」
赤鋼が続ける。
「北は簡単に誰をも受けぬ。
だが、お前は『立つ理由』を持っている。」
徨紫は静かに締めた。
「白華殿。
あなたの名は北に届きはじめています。」
焚かれた火が、白華の影を長く伸ばす。
その影は揺らぎながらも、決して折れなかった。
(ここに立つ――。)
(私の名を、この北の地に。)
白華は胸の奥に、確かな熱と冷たさを同時に抱いた。
それは火でも鉄でもなく――
ひとつの道の始まりだった。




