第十七章拾玖 名を運ぶ風
夜は深まっていた。
黒狼族の本陣を包む風は冷たく、雪にはならない乾いた寒気が、空を鋭く磨いたように澄みきっている。
星々は地を見下ろすように瞬き、遠くで狼の声が一度、尾を引いて消えた。
凍昊が幕を出て去ったあと――
本陣の気配は、少しだけ形を変えていた。
白華は火を正面に据えたまま、静かに呼吸していた。
黒牙は何も言わない。
赤鋼は腕を組んだまま火を見、
徨紫は香煙を漂わせつつ、白華を観察する。
だが、その沈黙は重圧ではなく、
白華という存在が、この地へ“置かれた”直後の――
風が形を整えようとする前の静けさだった。
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黒牙が火を一度だけくゆらせ、指で薪を押した。
ぱちり、と弾けた火が、白華の頬を淡く照らす。
黒牙が問うでもなく、告げるでもなく――
ただ事実を空へ流すように言った。
「――白華の名は、もう北に流れた。」
白華は顔を上げる。
「……もう、広がっているのですか。」
「風は早い。影はなお早い。」
黒牙の声は低いが、どこか遠くを見ているようだった。
「密使が踏んだ道を、獣も鳥も歩く。
獣が見たものは、人が語る。
人が語れば――風になる。」
徨紫が小さく微笑む。
「“白陵から白き華が来る”と。
この夜の焚火よりも速く、北へ散っていますよ。」
白華は火に目を落とす。
火は揺れ、影も揺れた。
(私という名が……風になった。)
想像すらしていなかった。
白陵の外に出ることも、
名を他の地で語られることも、
ましてや北方で“知られる”ことも。
だが今、北の風が運んでいるのは――
彼女が選んだ名「白華」そのものだった。
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赤鋼が低く、短く言った。
「名だけ歩く者は多い。
だが名に肉が乗り、骨がつくのは――歩む本人次第だ。」
徨紫が続ける。
「白華殿。あなたが北へ来た理由は聞きました。
ですが、“白華としてどう立つか”は、まだどこにも示されていません。」
黒牙の視線が、ゆっくりと白華に戻った。
「北の者たちは、名に引かれるのではない。
立ち姿に引かれる。」
白華はうなずく。
「……はい。」
「光であろうと、影であろうと、
それを決めるのは北ではない。白華だ。」
火がぱち、と小さく散る。
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徨紫が思い出すように言った。
「黒龍宗の密使は、こうも言っていました。」
白華は視線を上げる。
「“白華と興華――その二人の名は、白陵を揺らす核だ”と。」
白華は息を止めそうになり、しかし揺れずに受ける。
黒牙は火から目を離さない。
「北の者は他国の皇族の名に興味はない。
だが“揺らぐ核”という言葉には、耳を傾ける。」
赤鋼が腕を組んだまま鼻で笑う。
「黒龍宗の言葉は軽いが、放たれた影は勝手に歩く。
それが厄介なんだ。」
「だからこそ――」
徨紫の目が白華へと向く。
「“本人の姿”が必要です。」
白華は、静かに深く頷いた。
「ここに来た意味を……自分の中に置いていきます。」
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黒牙は白華の顔を、長い間見ていた。
火の揺らぎが彼の瞳に映る。
その光は、まるで試すのではなく――
白華の奥にあるものを“確かめよう”としていた。
ようやく黒牙が口を開く。
「白華。
お前の歩む音は、まだ小さい。」
白華は静かに聞く。
「だが、その音は――風が拾った。」
徨紫が付け足す。
「つまり、もう止まらないということです。」
赤鋼が顎を引き、火に影を落とす。
「風に乗った名は、戻らない。
北の地に入った以上、進むしかない。」
白華はひとつ息を吸う。
凍える空気が肺の奥に入り、火の温かさと混ざる。
(私は――もう戻れない。)
(戻らない、と決めた。)
白華は火へ手を伸ばし、
手のひらに温かい気配を受けながら、静かに言った。
「私は、白華として――北に立ちます。」
その言葉は炎が吸い、
風が運び、
影が形を変えていった。
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幕の外で、狼が再び吠えた。
その声は遠く――
しかし、どこか近い。
黒牙は立ち上がらずに言う。
「白華。
北は、お前を“試さぬ”。」
徨紫が微笑み、
赤鋼が瞳を細める。
「――だが、見ている。」
白華は深く頭を垂れた。
それは服従ではなく、
ここに立つ意志の証だった。
(風が――歩き始めた。)
白華の名は、もう彼女の背より先へ出ていく。
北方の村々に、狩場に、焚火の輪に、
子どもたちの歌に、戦士たちの語らいに。
白き華が来た。
白陵の名ではなく、白華という名で。
その噂が、静かに、しかし確実に北へ広がっていった。
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