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三華繚乱  作者: 南優華
第十七章
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第十七章拾伍 火と灰を繋ぐ声

戦場は、一度だけ息を止めた。


 炎は沈み、風も止まり、音という音がすべて消えた。

 天鳳と朱烈の間には、もう「戦い」という名のものはなかった。

 刃は交わりながらも、互いを斬らない。

 火と風が、ただ存在を確かめ合う。

 それは、もはや闘争ではなく――生の対話だった。


 だが、静寂は長くは続かない。


 


 金城軍の陣の後方。

 焦げた砂を踏みしめながら、一人の女が立っていた。

 黒衣、白い肌、そして瞳は夜よりも深い闇。

 黒蓮冥妃。


 彼女のそばに、馬上の嶺昭がいた。

 額には汗、唇は噛み切られた血で滲む。

 敗勢の気配を感じ取りながらも、彼は命を出せないでいる。


「嶺昭。」


 冥妃の声が、焔をなでるように落ちた。

 その響きだけで、男の背骨が冷たくなる。


「沈むには、まだ早いわ。」


「……だが、朱烈将までもが……」


「勝てとは言わない。

 ただ、燃え続けなさい。

 火が消えれば、名も国も、すべてが灰になる。」


 唇の端が、笑みにわずかに動いた。

 命令とも誘惑ともつかぬ言葉。

 嶺昭の眼に、再び血の色が戻る。


「全軍――前へ! 突撃せよ!!」


 叫びが砂原を震わせ、金城軍が動いた。

 黒蓮冥妃はその背を見送りながら、炎の中を静かに歩き出す。

 向かう先は――蒼龍の陣。


 


 雷毅の声が、戦場に戻る秩序をもたらしていた。


「弓列、二歩下げろ! 槍陣は左右に展開! 親衛は中央を守れ!」


 叫びに兵が応じる。

 雷毅の視線が、曹華を捉える。


「曹華、下がるな! 俺が前を取る!」


「わかってる!」


 声を返した瞬間、胸の奥に小さなざらつきが走った。

 風が止み、熱がすうっと引く。

 空気が――沈む。


 曹華の首筋に、氷の針のような気配が走った。


 


 黒蓮冥妃が歩いていた。

 音もなく、砂を踏んで。

 衣が揺れず、影だけが広がる。

 その存在が近づくたび、炎の灯が一つずつ消えていく。

 紫叡が低く嘶き、地を爪で掻いた。


 雷毅が叫ぶ。


「曹華、気をつけ――!」


 だが声の途中で、空気が止まった。

 黒蓮冥妃が目を上げたからだ。

 ただ視線を向けるだけで、音が凍る。


 


「……また会えたわね。」


 その声は、かすかな微笑を含んでいた。

 だがそれは、懐かしさでも友情でもない。

 “観察者の声”だった。


「お前……蒼龍京で……」


 冥妃の唇がわずかに笑む。

 美しく、恐ろしい笑み。


「あなた、まだ迷っているのね。

 灰のまま、生きるつもり?」


 曹華は短槍を握り直した。

 構えというよりも、自分を支えるため。


「私は灰の中に、“声”を見た。」


「声?」


 冥妃が首を傾げた。

 その仕草には、愉しみすら漂っていた。


「あぁ……第七砦で死んだ者たちの声ね。

 あなた、まだ彼らを抱えているの。」


「抱えている。それが、私が燃えない理由だ。

 燃えたら、あの声まで消えてしまう。」


 冥妃は目を細めた。

 ため息のような息を吐く。


「燃えない火に、意味などあるの?」


 その言葉は柔らかく、それでいて致命的だった。


「あなたが燃えれば、世界は動く。

 白華も、興華も、それを見るでしょう。」


 


 ――白華。

 ――興華。


 懐かしく、痛い響き。

 胸の奥が、音を立てて揺れた。

 心臓の鼓動がひとつ、強く跳ねる。


(姉上……興華……)


 白華は、最愛の姉。

 穏やかで、誰よりも強く、美しかった。

 興華は、最愛の弟。

 いつも小さな手で、自分の袖を掴んで離さなかった。


 二人は――生きている。

 そう、私は信じている。

 信じなければ、立っていられなかったから。


 けれど、心の奥では恐れていた。

 もしその「信じる」が間違いで、

 本当は、もうこの世にいなかったとしたら。


 確かめるのが、怖かった。

 知ってしまえば、もう希望を抱けなくなるから。

 だから信じ続けた。

 “信じたままでいたかった”。


 


 黒蓮冥妃の声が、静かに刺す。


「生きているのよ。

 あなたの姉も、弟も。

 白陵の庇護のもとで、息をしている。」


 言葉が、心の中心に落ちた。

 あまりにもあっけなく、あまりにも冷たく。


 信じていた言葉が、敵の口から告げられる。

 胸が――軋む。

 嬉しさでも、安堵でもない。

 “混乱”だった。


(生きている? 本当に……?)

(けれど、それをこの女から知らされるなんて……)


 喉が詰まる。

 呼吸が荒くなる。

 信じたい心と、拒む心がぶつかる。


 冥妃が唇を歪めた。


「ほら、今。あなた、燃えている。」


「やめろ……!」


 短槍が震える。

 紫叡が前脚を踏み鳴らし、地を蹴る。

 冥妃の衣が波のように揺れ、影が広がる。

 その一歩ごとに、地面の色が沈んでいく。


「やはり、面白いわ。

 あなたは燃えぬ火。

 けれど燃やせば、灰が歌う。」


「私は、燃えない。」


「どうして?」


「燃えたら、“帰れなくなる”から。」


「帰る? どこへ?」


「――姉上と、興華のところへ。」


 


 黒蓮冥妃の瞳が、ほんの一瞬揺れた。

 その笑みが、かすかに止まる。

 人間らしい、痛みのような色が差す。


「……そう。

 家族の火、ね。

 それは、美しくて、脆い。」


 彼女はふっと息を吐くと、背を向けた。

 歩きながら、影の中で声を落とす。


「覚えておきなさい、曹華。

 灰はいつか風に散る。

 けれど、燃え上がる日を――妾は楽しみにしているわ。」


 風が戻る。

 熱が、静かに蘇る。

 雷毅が駆け寄る。


「曹華! 大丈夫か!」


 槍を支え、曹華は息を吸った。

 胸の奥がまだ熱い。

 紫叡が低く嘶き、足元の影が揺れる。


「……雷毅。

 姉上と……興華が、生きてるって……」


 雷毅は答えず、拳を握り、短く頷いた。

 真実はわからない。

 だが、彼女の信じた火を折ることはできない。


「信じよう。

 でも今は立て。天鳳将軍がまだ――!」


 曹華は顔を上げた。

 炎と風の中心で、天鳳と朱烈が交錯している。

 火は燃え、風は抱く。

 その光景を見つめながら、胸の中で呟いた。


(私は、燃えない。

 けれど、この火を見届ける。

 姉上、興華――あなたたちの声を、もう一度届けるために。)


 紫叡が地を蹴った。

 灰が舞い、風が道をつくる。

 黒蓮冥妃の残した影が、遠くで溶けて消えた。



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