第十七章拾肆 決するは刃にあらず
――風が止み、炎が静まった。
喧噪は遠い。
金属の打ち合う音も、兵の叫びも、今この場には届かない。
戦場の中心だけが、ひとつの「呼吸の場」となっていた。
朱烈の炎は燃え上がらず、ただ揺れていた。
燃やすための火ではない。
触れれば熱いが、焼き尽くすほどではない。
それは彼女の心の奥で灯り続ける、“確かめる火”だった。
天鳳はその前に立つ。
黒刃はすでに抜かれているが、切っ先は定まらない。
風を集め、風を受け、ただ炎と対話している。
ふたりの間に、誰も近づけない。
火と風が互いを殺さず、包み合う。
それは戦いではなかった。
生の対話だった。
朱烈の唇がわずかに開く。
「……そなたは、なぜ折れぬ。」
声は囁きのように、炎の音に溶けて消える。
問いというより、心の奥を確かめる言葉。
天鳳の黒い瞳が、まっすぐ朱烈を見据えた。
「折れなかった“声”を、見たからだ。」
朱烈の眉がわずかに動く。
「……声?」
「死を受け入れずに燃えた者たちがいた。
その声を、私は見た。
だから――私は折れぬ。」
朱烈の瞳に、微かな光が宿る。
火の中に映る小さな影のように。
「――ならば火の側に立っている。」
天鳳は何も言わなかった。
肯定でも否定でもない。
ただ、そこに立つという“存在の答え”だけがあった。
朱烈は微笑む。
その笑みは、獣のものではなく、人の微笑み。
「ならば、これ以上の言葉はいらぬな。」
双刃がわずかに動く。
天鳳の黒刃も同じ軌を描く。
だが――斬らなかった。
朱烈は天鳳を焼かず、天鳳も朱烈を斬らなかった。
風が炎を裂かず、炎が風を呑まぬ。
互いの核は見えた。
そして、その瞬間、戦場の空気が「静かに定まった」。
押し寄せていた熱がすっと引き、
風が穏やかに通り抜けていく。
周囲の兵たちは息を呑み、動けない。
誰もが理解した。
勝敗は、すでに“刃の上”ではつかないのだと。
朱烈はゆっくりと双刃を下ろす。
天鳳も同じように黒刃を降ろした。
ふたりの間に、風が通った。
その風には熱がなく、ただ、命の匂いだけがあった。
曹華は、その光景を見ていた。
それが「勝敗」ではないと、彼女は理解していた。
あれは、在ることの決着。
(火は燃え、風は抱く。
私は――灰から立つ者。)
胸の奥が、わずかに熱を持つ。
だが、それは焼ける熱ではない。
命がまた動き始める合図だった。
紫叡が鼻を鳴らす。
雷毅が隣で息を整えながら、遠くの光景を見つめる。
「……終わったのか。」
「まだ――終わっていません。」
曹華がそう呟いた瞬間、空気が再び歪んだ。
――風が止まった。
金城軍陣の後列。
暗い幕が、風もないのに揺れる。
誰かが、そこに“立った”。
朱烈の炎が微かに揺らぎ、天鳳の風がわずかに乱れた。
そのすべての中心に、“影”が降りてきた。
地の温度が、一つ、落ちる。
光ではない。
闇でもない。
“沈みゆく影”が、戦場の中心に現れた。
黒蓮冥妃。
その名が、風に触れずとも伝わる。
黒衣に包まれ、仄かに漂う香。
笑っているのか、怒っているのかもわからない唇。
蒼龍京で一度、曹華が遠くに見た女。
闇の中で微笑み、炎の中で言葉を残した女。
彼女はゆっくりと歩き出す。
歩くだけで、足元の草が黒く枯れていく。
「……あら。」
その声は、氷のように静かで、炎よりも柔らかい。
「ここで“答え”が生まれるのは困るわ。」
朱烈の瞳がわずかに揺れる。
天鳳の風が、静かに張りつめた。
黒蓮冥妃の指先が、炎の余韻をなぞる。
「火が静まり、風が止まる……美しいわね。
でも、それは“終わり”ではない。
――まだ燃やすものが、ここにはある。」
朱烈が、かすかに眉を寄せた。
それは従者が主に従う顔ではなく、一人の戦士としての警戒。
「妾は、ここまでの戦を見届けた。
だが、冥妃――これは妾の戦だ。」
黒蓮冥妃は微笑む。
目を細め、朱烈を見た。
「朱烈。
あなたの火は“美しい”けれど、それだけでは足りない。
燃えるだけでは、人は動かせないわ。」
その声音には、血のような甘さと、底のない冷たさが混じる。
「炎は、風と出会って初めて広がる。
けれど、その風が“答え”を持つなら……
それはもう、火ではない。」
朱烈の喉が、小さく動いた。
言葉を返そうとして――できなかった。
黒蓮冥妃の視線が、静かに曹華へと向かう。
その黒い瞳が、まるで“過去”を映す鏡のようだった。
「あなたね。
蒼龍京で見たわ。まだ燃えていなかった。」
曹華は、息を詰めた。
体が自然と硬直する。
黒蓮冥妃の言葉は、刃より深く刺さる。
「……あなたが燃えれば、三つの華は揃う。」
白華。
興華。
そして、自分。
(――違う。)
心が震える。
それでも、声は静かだった。
「私は、燃えません。」
黒蓮冥妃の笑みが深くなる。
「では、灰のままでいなさい。
けれど覚えておきなさい――
灰は、火の“証”なのよ。」
戦場の温度が、さらに下がる。
空気が軋む。
炎がしぼみ、風が流れを失う。
誰もが、動けなかった。
黒蓮冥妃は、ただ歩き続ける。
その歩みは、まるで時の流れそのもののように遅く、確実だった。
(この人は、“終わり”を作るために来た。)
曹華は、胸の奥でそう理解した。
(でも――)
彼女は、拳を握った。
(私は、もう奪われない。)
紫叡が鼻を鳴らす。
雷毅が横で剣を構え直した。
黒蓮冥妃の足音が、砂の上で止まる。
次の瞬間、
朱烈の炎がふっと揺れ、天鳳の風が再び息を吹き返した。
それは、新しい“戦の始まり”ではなかった。
失われた“生の証”を取り戻すための呼吸だった。
――火は、まだ消えていない。
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