第十七章拾参 炎の底、風の奥
紫叡が嘶きを上げ、
その声は戦場の喧噪に呑まれず、むしろ縫うように響いた。
(前へ――)
その意志は、もう言葉ではなかった。
私の呼吸と、紫叡の息と、
戦場そのものの脈動が、ひとつに合わさっていた。
視界の先。
炎と風はなお交錯している。
朱烈の炎は、吹き上がる炎ではなく、炉の奥に潜む芯火だった。
燃え尽きる火ではない。
生きて在り続ける火。
一方で天鳳の風は、押し返す風でも、切り裂く風でもない。
炎を“殺さない”まま、境界だけを定める風だった。
二人は互いを斬らず、互いを“深く見ていた”。
炎は燃やすもの。
風は散らすもの。
だが今、炎は風を呑まず、
風は炎を消さなかった。
それは、
生と生が“互いの存在そのもの”を差し出す応答だった。
(これは――戦ではない。)
(――対話だ。)
刃が言葉であり、
呼吸が言葉であり、
踏み込みが言葉であり、
退きが言葉だった。
誰も割って入れぬ。
兵も、軍も、国も――干渉してはならない場所。
だが、私は見ていた。
(あの日、私は“燃え残り”だった。)
(だが今――)
紫叡が地を蹴る。
砂が走り、赤土が飛ぶ。
(私は“燃え残りの意味”を持っている。)
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「天鳳。」
朱烈が呼んだ。
刃は振るっていない。
だが声そのものが火だった。
「そなたの風は、いつから“燃やすため”ではなく“生かすため”になった。」
天鳳は答えない。
斬り交える。
火花ではなく――火の粉が散った。
天鳳が静かに息を吐いた。
「……第七砦を見た日からだ。」
朱烈の炎が、わずかに沈む。
「焼かれた声を聞いたのか。」
「いや。」
天鳳の声は静かだった。
だが揺らぎはない。
「声にならなかった声を、聞いた。」
朱烈の刃先が、そこで止まった。
その停止は、後退でも躊躇でもない――認めた動き。
「ならば、そなたはもう“燃える側”だ。」
天鳳は首を振らない。
肯定も否定もしない。
「私は焼かない。
燃やすのではなく、燃え残りを繋ぐ。」
朱烈の瞳が揺れる。
それは炎そのものの震えだった。
「……それが、そなたの“風”か。」
「そうだ。」
(生かすために燃える風。)
それは――
(私が見てきた人だ。)
呼吸が胸の奥で熱を帯びる。
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「曹華。」
呼ばれた。
炎でも、風でもなく。
ただ、はっきりとした声で。
朱烈が私を見た。
その瞳は、炎の奥にある“核”を見ていた。
「そなたも、燃え残りの声を抱えている。」
胸が、熱くなる。
(見られている……。)
「生きようとした声を、守り続けている。」
朱烈の声に、揺らぎはなかった。
「ならば――火はそなたを喰わぬ。」
天鳳がわずかに目を動かした。
朱烈は続ける。
「そなたは、火の側だ。」
私は――息を吸った。
「違う。」
朱烈の瞳が細まる。
「私は――」
呼吸が、芯へと落ちていく。
「火に“残された”者だ。」
朱烈は、その言葉を否定しなかった。
「ならば、選べ。」
炎が、朱烈の足元に生まれる。
「火とともに昇るか。」
風が、天鳳の周りに巻き起こる。
「風とともに渡るか。」
その選びは、誰に強制されるものでもない。
(火か、風か――)
違う。
(私は――)
私は、
灰から立つ者だ。
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紫叡が大地を踏み鳴らした。
その音は、戦場のすべての音を一瞬だけ押し流すほど力強かった。
私の槍は、震えていない。
「私は――ここに立つ。」
炎の間。
風の奥。
その“あいだ”に。
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