第十七章拾壱 北と白の間で(二)
焚火はなお燃えていた。
夜気は凍るほどに澄み、空は限りなく深い黒であるのに、星だけは冴え冴えと鋭く光っていた。
その冷たさと火の温かさの境界に、人と大地と呼吸だけが存在している。
黒狼族の本陣に設えられた大幕の中。
そこは城でも、宮でもない。
だが、決断が生まれる場所であった。
白華は静かに膝を折り、火を正面に置いて座した。
凍昊はその背に立つ。
しかし、その姿は護衛ではない。
白陵が礼を持ってここへ使者を送り、礼を受けたという証。
黒牙が中央。
赤鋼が左に。
徨紫が右に座している。
この三席が並ぶとき、ここはすでに 北方部族連合の議場 だった。
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火が小さく爆ぜた。
黒牙が白華に視線を向ける。
威圧でも、探りでもない。
ただ――正面から。
「白華。白陵は“賓”を差し出した。
北は、これを“賓”として受ける。」
静かな宣言だった。
だがその言葉は――
国と国、陣と城、火と大地を結ぶ「結び」そのものだった。
白華は、深く深く頭を垂れる。
「白華、この地にて客人として立ちます。
白陵の印ではなく、白華という名をもって。」
黒牙は頷かない。
だがそれは 肯定と同義だった。
赤鋼が腕を組んだまま言う。
「白陵は、筋を通したな。」
徨紫は柔らかく続ける。
「ならば私たちも、筋を返さねばならない。」
黒牙が凍昊に視線を送る。
「白陵の武、凍昊。」
「は。」
「お前は白陵へ戻り、我らの言を伝えよ。」
凍昊は一礼する。
「承る。
白華殿は――ここに?」
「ここに置く。」
黒牙は淡々と言った。
「客として。
囚ではない。
使でもない。」
その言葉に、凍昊の眉がわずかに動いた。
(……この地で、“白華殿自身が立つ”ということか。)
それは白華を守ることでも放すことでもない。
白華が、自らの歩みで北へ踏み込むという意味だった。
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黒牙は、火に手をかざす。
「凍昊。
帰る前に、ひとつ伝えることがある。」
焚火の光が、黒牙の横顔に深い影を落とした。
「白華が来る前に――黒い影が北に入った。」
凍昊の目が細まる。
「……黒龍宗、ですか。」
「そうだ。」
赤鋼が短く舌打ちした。
「奴ら、軽い言葉で重たく揺らそうとする。」
徨紫は香の煙を指先で撫でる。
「『白陵は内部が割れている』と。
『南は火に沈む』と。
『北が次の地を取るなら今が好機』と。」
その言葉はまるで、
風に匂いを混ぜるように
人の心に忍び込む。
黒牙は火を見たまま、低く言った。
「だが、我らは動かなかった。
言葉だけでは、群れは動かない。」
「それでも――影は残る。」
徨紫が言う声は静かだった。
「影は光が差さねば消えない。」
そこで黒牙は白華に目を向ける。
「白華。
北はお前を“試さない”。
ただ、見る。
お前が光か影か――それを見極める。」
白華は迷いなく、ただ一言。
「まずは、聞きます。
見るより先に。」
黒牙の瞳が、わずかに深く沈む。
(この者は――“戦わぬ意志”を折らぬ。)
その静けさこそ、白華が北に立つ武であり、刃だった。
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その場の空気が、ゆっくりほどけていく。
返礼は終わった。
関係は結ばれた。
火は燃え続ける。
凍昊は白華へ一歩寄る。
「白華殿。」
白華はその名を正面から受けた。
「はい。」
「……生きて戻られますよう。」
白華は頷いた。
「はい。必ず。」
それは約束ではなく、宣言だった。
凍昊は何も言わず幕を出ていく。
その背を、北の風が静かに押した。
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