第十七章伍 霜牙を越えて
北へ向かう道は、白陵京を出てからほどなく山影を含み始めた。
大地はなだらかに起伏し、木々は葉を失い、枝は黒々と空を指している。
その黒と白のあわいの中を進むうちに、空気は徐々に変わっていった。
白華は、愛馬・清影の首に指を添えた。
清影の呼吸は乱れず、足取りは揺るがない。
ここまでの旅路では、馬と人の間に余計な緊張はなかった。
だが、目の前に広がる景色は、旅ではなく境界だった。
見えているのは、ただの谷ではない。
山肌が牙のように裂け、裂けた隙間に風が通り、
通るたびに風は形を変え、声を変え、誰かの言葉のように響く。
――それが、霜牙の峡。
白華は息を吸う。
肺に入る空気は、鋭く、まるで刃だった。
凍昊中将が馬を止めた。
「ここからが“北”だ。」
白華は、ただ頷いた。
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峡谷は、白と黒で成り立っていた。
白は雪ではない。霜だ。
夜に凍り、昼にわずかに溶け、また凍ることを繰り返す霜が、岩肌に幾層にも積もり、
まるで骨の断面のような光沢をつくっていた。
黒は岩である。
だが、その黒さはただの石ではなかった。
長い時間、風と雪と氷に削られ、研がれ、磨かれ、
刃のように細く鋭い影を落としている。
その白と黒の間を、風が通る。
風は、氷に触れ、石に触れ、道を削り、
そして今、白華と清影の外套をはためかせる。
風は、通り過ぎる者に語りかけていた。
進む理由はあるか。
戻らぬ覚悟はあるか。
ここで“揺らがない者”だけが、北へ行ける。
白華は、風を正面から受けた。
(……怖れはある。
でも、退く理由ではない。)
清影が、一歩だけ前へ出ようとしたその時。
「…止まれ。」
凍昊の声が、風よりも静かに響いた。
白華は手綱を締め、清影は素直に歩みを止めた。
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「…ここで引き返すなら、まだ間に合う。」
凍昊は、白華を見ず、峡の奥へ視線を向けたまま言った。
「北は、道理が違う。
言葉も、約束も、信頼も、白陵のものとは別の形で成される。
この先では、“正しさ”は誰も守ってはくれん。」
「……はい。」
「風も、人も、牙を持っている。
その牙は、弱さを見逃さない。」
白華は、深い呼吸をひとつ置いた。
「私は、弱くないつもりはありません。
ただ、強いと決めることもできません。」
凍昊はそこでようやく白華を見た。
「…それでいい。」
短く、重い言葉だった。
「強さは、帰る場所ではない。
“進む足”だ。」
白華は目を伏せ、そしてゆっくりと上げた。
「私は、戻るために越えるのではありません。
行くために越えます。」
風が一瞬だけ止んだ。
霜牙の峡がその言葉を受け取ったかのように。
凍昊は深く頷いた。
「ならば、行け。」
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白華は手綱を軽く引き、清影に前進を促す。
清影は、ためらわなかった。
峡の入口へ足を踏み入れた瞬間、風の音が変わった。
それは唸りではなく、低い響き。
声だった。
何かが、ただそこに在る者を見ている。
北の大地は、生きていた。
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峡は細く、長い。
左右は切り立った岩壁。
頭上には空が細い線のように見え、その向こうに薄く光が揺れていた。
白華の外套は風に押されるが、彼女の背筋は揺れなかった。
凍昊は後ろから見守っていた。
彼は言葉を足さなかった。
余計な言葉は槍より重く、呼吸を乱すからだ。
白華の呼吸は、清影の呼吸と揃っていた。
足音は雪ではなく、霜を砕く音。
パリ……パリ……
静かな音は、逆に存在を鮮明にした。
峡を越えることは、歩くことではない。
“揺らがないこと”を示すこと。
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谷間の風が少し弱まり、地面が緩やかに上り始める。
白華は、ふと空を見た。
細い空、その向こうに広がる白い雲。
彼女は思った。
(私は、ここへ来る未来を選んだ。)
それは後悔ではなかった。
痛みでもなかった。
ただ、確かな事実だった。
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風が和らいだ瞬間、凍昊が前に出て言った。
「越えたな。」
白華は振り返らず、ただ前を見つめた。
霜牙の峡の先。
そこには、広い空と、白と灰と黒の大地が果てなく続いていた。
白陵とは違う空気。
空が低く、風が大きく、地が重い。
その大地のどこかから、視線がこちらを見ている。
黒狼族のものか。
他の北方部族のものか。
それとも、ただ大地そのものか。
白華は、その視線から目を逸らさなかった。
「行きましょう。」
「うむ。」
清影が、雪の平野へ脚を進める。
その一歩は、帰路ではなく、新しい世界への歩みだった。
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