第十七章 肆 霜牙の道へ
白陵京を離れたのは、まだ朝の光が石畳に落ち切らぬ時刻だった。
城壁を出ると、風の性質がわずかに違っていた。
街の内側にある温度は、いくつもの人の息と灯火でやわらかい。
しかしひとたび外へ出れば、風はそのやわらぎを剥ぎ取っていく。
白華は、愛馬・清影の背に揺られながら、まっすぐ北を見ていた。
冬はまだ深まりきっていない。
けれど、土の匂いの下には確かに雪の気配が潜んでいた。
息を吸うと、胸の奥がわずかに締まるような冷たさ。
並んで進む馬上には、凍昊中将がいた。
無言の時間が続いていたが、それは重さではない。
白華が考える余白を、凍昊が邪魔をしないだけだった。
「……寒さは、まだ浅い。」
凍昊がぽつりと言った。
白華は顔を上げる。
「はい。」
「北へ向かう風は、季節より早く吹く。
人より、土地が先に冬へ入る。」
「土地が先に、ですか。」
「ああ。北は、季節を待たん。」
その言葉は、警告ではなく、道理だった。
白華は手綱を軽く握り直した。指先の感覚はしっかりしている。
震えてはいない。
だが、静かに緊張していた。
――この道は、覚悟を確かめる道。
白華はそれを理解していた。
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丘陵が続く。
木々は葉をほとんど落とし、枝は黒い影のように空へ伸びている。
地面には霜が薄く降り、踏めば細かく砕ける音がした。
清影の足取りは乱れない。
雪を踏む前から、雪を知っているかのようだった。
白華がその首筋にそっと触れる。
「……ありがとう。」
言葉ではなく、指先で気持ちを伝えるように。
清影は鼻を鳴らし、呼気が白い煙を作った。
「良い馬だ。」
凍昊が言った。
「ええ。」
「お前が乗ると、馬も変わる。
それは、悪いことではない。」
「……強さでしょうか。」
「強さとは限らん。だが、迷わない背を持っている者には、馬は従う。」
白華は静かに目を伏せた。
迷っていないわけではない。
迷いは心の奥に、炎のように息を潜めている。
(興華……。)
手を離す痛みは、まだ胸に残っている。
だが後戻りはできない。
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昼を少し過ぎた頃、道沿いに小さな村が見えた。
畑は冬の準備に入っているのか、土を黒く伏せている。
家々の屋根には厚めに藁が敷かれ、煙が細く立ち上っていた。
凍昊は村の入口で馬を止めた。
「水と火だけ借りる。」
「はい。」
二人は馬を降り、村の井戸のある広場へ向かった。
村人たちの視線が集まる。
白華はそれを、まっすぐ受け止めた。
敵でも味方でもなく、ただ見る目。
何かを測るような静かな眼差し。
「旅の方か。」
白髪を束ねた老人が近寄ってきた。
村長だろう。
「はい。北へ向かいます。」
白華が丁寧に頭を下げる。
老人は、白華の目をまっすぐに見た。
「北は、心を凍てつかせる。」
「承知しております。」
「ならば、越えられよう。」
ただ、それだけ。
白華は息を吸い、胸の奥にしまった。
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村を出ると、風が一段と鋭くなった。
木々は高く、影は深い。
雪はまだ薄いが、踏むごとに冷たさが増していく。
凍昊が言う。
「ここから先が、北境だ。」
白華の視界に、遠く、白い峰々が連なるのが見えた。
その手前に、一本の谷がある。
風が牙を剥くように吹き荒れる谷――
霜牙の峡。
その名を、白華は聞いてきた。
北方部族連合へ通じるただ一つの道。
その入口は、風そのものが試す門。
白華は息を吸った。
(ここからが、私の道。)
清影が、ゆっくりと前へ進んだ。
馬は迷っていない。
「白華。」
凍昊の声は、低く静かで、揺れない。
「この道を越えた先には、北方部族連合の領が広がる。
彼らは、決して従う者ではない。」
「はい。」
「彼らは“強い者”に道を開く。
だが、“強がる者”には牙をむく。」
白華は息を吸う。
「私は、強がりません。」
凍昊は小さく頷いた。
「……それでいい。」
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風が吹いた。
谷に近づくごとに、空気は透明となり、言葉は霧散した。
白と黒の大地が、ただ静かにそこへ続いていた。
白き華は、北へ向かう。
足元の霜が音を立てて砕ける。
その一歩は、揺らぎではなく、前進だった。
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