第十七章弐 離れぬ手、離す手
玉座の間を出ると、外気がゆっくりと肺に落ちていった。
白陵宮の回廊は広く、どこまでも白く、静かだった。
人影はない。
だが、それは「誰も近づけない」のではない。
誰も、この場を乱せないのだ。
白華は歩き続けた。
歩みの速さは変わらない。
ただ、前へ進む。
その背を、興華は追っていた。
足音は控えめ。
けれど、その速さだけは抑えられずににじんでいる。
「……姉上。」
その声は、風に触れた氷の欠片のように繊細だった。
白華は立ち止まる。
振り返りはしない。
ただ、足だけが止まる。
興華は、その止まった背へ一歩近づいた。
着物の裾がわずかに揺れ、それすら痛いほど美しかった。
「行かなくても……いい。」
その言葉には、叫びも訴えもなかった。
ただ、残された者が知る痛みがある。
白華は、静かに振り返った。
興華の瞳は、濡れてはいなかった。
泣かないように、泣かせないように、何度も何度も自分を固めてきた瞳だった。
だからこそ、その揺れは痛い。
「…興華。」
白華は一歩、興華へ近づいた。
距離を詰めるのではなく、呼吸を合わせるように。
そして、興華の手に触れた。
握らない。
包み込まない。
ただ、「触れた」。
それだけで、興華の肩がわずかに震えた。
「私は、あなたを置いていくわけじゃないよ。」
「……でも、目の前からいなくなる。」
「うん。」
否定はしない。
嘘はつかない。
その誠実さが、残酷なほどにやさしい。
「でも、それでも、繋がっていられる。」
「……どうして、そんなふうに言えるんだよ。」
「興華。私たちは……」
白華は、自分の胸に手を添えた。
「失ったまま、生きてきた。」
興華の呼吸が止まった。
「失わないために生きているんじゃない。
生きようとして、生きている。」
言葉は柔らかく、しかし逃げ場がなかった。
興華は、一度唇を噛み、目を閉じる。
「……俺は、どうしたらいい。」
白華は、迷いなく答えた。
「ここにいて。」
即答だった。
「白陵で、生きて。
自分の居場所で、生きて。
誰かに守られるんじゃなく、自分で立って。」
「姉上は……?」
白華は、興華の手からそっと触れを離した。
握られていたわけでも、繋がれていたわけでもないのに、
その離れ方は、胸の奥をきしませた。
「私は、“道の先”で生きる。」
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そこへ、足音が一つ。
華稜皇子が歩み寄ってきた。
歩幅は静かで、揺れていなかった。
だが、その沈黙には、誰も触れてはいけない感情があった。
「白華殿。」
「……華稜皇子。」
二人の視線が交差する。
触れない。
訴えない。
ただ、同じ温度の深さで。
「白華殿は……必ず戻る、と言いましたね。」
「はい。」
「約ではなく、誓いでもなく。」
「“決めた”ことです。」
華稜は目を伏せる。
その指先が、衣の内で強く握られた。
「ならば私は——」
顔を上げる。
その瞳は、恋を宿していた。
しかし、同時に、皇族として生きる者の強さを宿していた。
「興華を支えましょう。」
興華がはっとして振り向く。
「……華稜皇子。」
「白華殿が帰る場所を、揺らがせてはならない。
白華殿が帰りたいと思える白陵でなければならない。」
それは“告白”ではない。
献身だった。
白華は深く礼をした。
「ありがとうございます。」
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興華は、白華を見た。
触れられそうな距離。
でも、触れられない。
「……姉上は、本当に……帰ってくる。」
「うん。」
「約束じゃなくて?」
「私の“生きる道”だから。」
興華は、そっと白華の手に触れた。
そして——
自分から、離した。
白華は、止めなかった。
受け入れもしなかった。
ただ、その離れていく温度だけを、胸の奥でそっと受け取った。
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これは別れではない。
生きるために、離した手だった。
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