第十六章弐拾 残り火は道を照らす
紫叡が地を蹴った。
その一歩は、視界の空気を変えるほどに確かな力を持っていた。
前脚が大地を抉り、砂と土が舞い上がる。
風が私の頬を切り裂くように流れ、呼吸を深く引きずり込んでいった。
戦場全体が、再び「動き始めた」。
喧噪は戻っている。
叫び声も、鉄の打ち合う音も。
しかし、それらはただの音ではない。
今この戦場を動かしているのは、二人の意志だった。
天鳳と朱烈。
炎と風。
その交差から生まれた力が、軍勢を揺らしていた。
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(私は、燃え残りを抱いている。)
第七砦――
黒煙が空を覆い、風に焼けた木片が流れ、名を呼ぶ声が音にならず消えていった場所。
私は直接炎の中にいたわけではない。
だが、そこに残った“声なき声”を、確かに感じた。
焼けた梁の陰に、爪痕が残っていた。
壁に、手の跡があった。
逃げようとした痕跡。
諦めなかった命の重み。
(あれは、絶望ではなかった。)
あれは――
生きたい、という“声”だった。
声が残らないほど焼かれ、砕かれ、風に散っても。
それでも、残っていたもの。
それを私は抱いている。
胸の奥で、絶えず、静かに。
(だから私は、生き延びたんじゃない。)
(“残された”。)
(生きたいという声を、渡すために。)
それが、私がここにいる理由だ。
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「曹華、前へ!」
雷毅の声が、背ではなく“並び立つ位置”から響いた。
「行く。」
返す声は、静かだった。
だが、震えていない。
過去に囚われてもいない。
私の足は、前へ向かっていた。
紫叡が踏み込み、私の身体が前へ伸びる。
砂が舞い上がり、視界が赤土と光で滲んだ。
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その前方――戦場の中心。
朱烈の炎は、荒ぶっていなかった。
激しい火ではない。
むしろ、静かだった。
まるで、そこに炉があるかのように。
炎は揺れ、吸うように呼吸していた。
(これは……生きたいという火だ。)
焼き尽くす火ではない。
憎しみや怒りの火でもない。
ただ――生きようとする火。
その火が、朱烈の刃とともに揺らぐ。
対して天鳳の黒刃は、風そのものだった。
押し返す風ではなく、
炎の形を、壊さず、受け止め、流し、輪郭を見せる風。
二人は戦っているのではない。
生と生が、互いに「在る」を確かめていた。
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徐々に、金城軍がざわめき始めた。
「朱烈将が……押していない……?」
「いや……天鳳が、押し返している……のか……?」
「違う……斬り合っているのに……崩れない……!」
「こんな……戦いがあるのか……」
理解が揺らぎ始めると、それはすぐに士気に落ちる。
金城軍は “朱烈が焼き尽くして勝つ” と信じて出陣した。
だが朱烈は、焼いていなかった。
相手を呑まず、ただ受け止めている。
(信じた“勝ちの形”が崩れていく。)
それが、軍の心を揺らす。
「……下がるな! 前へ押せ!」
嶺昭が叫ぶ。
焦りではなく、本能的な維持行動。
しかし兵の足は、重くなっていた。
(前に出れば燃える。)
(後ろへ退けば崩れる。)
その二つの間に立ち尽くす軍は、弱い。
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一方、蒼龍軍。
「天鳳将軍が……進んでいる。」
「折れてない……」
「いや……燃えている……!」
口に出した瞬間、兵たちは理解した。
(将軍は、恐れずに火の中に立っている。)
ならば、兵の足は前へ進む。
「――押せ。」
天鳳の親衛隊が動いた。
続いて第一遊撃隊が矢のように前へ走り抜ける。
蒼龍軍は、この瞬間を待っていた。
(炎が炎として在り、風が風として在った瞬間。)
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私は、金城兵の刃を受け止めた。
腕がしびれる。
衝撃が骨へ、筋へ、肺へ響く。
それでも、折れない。
私は槍を払う。
兵が弾かれ、砂が舞う。
紫叡が前へ踏み込む。
雷毅が横で敵を薙ぎ払う。
私たちの動きは乱れなかった。
(私は、燃え尽きない。)
(燃え上がらない火だからこそ、消えない。)
だから――進める。
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戦場中央。
朱烈が、天鳳を見た。
その瞳は、戦いの中にあってなお、静かだった。
「天鳳。
そなたは、ようやく炎を抱いた。」
天鳳の視線は揺れない。
「私は……生かすために、燃える。」
朱烈は微笑む。
「ならば、ここからが“生”だ。」
炎が立ち上がる。
風が、そこへ踏み込む。
二人の間に――
決着への道が生まれた。
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私はその中心へ向かって走る。
(火は燃える。)
(風は抱く。)
(なら私は——)
灰より昇る声となって、戦場へ道を刻む。
紫叡が嘶いた。
風が私たちを押すのではなく、運んだ。
私は、前へ出る。
迷いはなかった。
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