第十六章拾玖 灰より昇る声
炎と風は、まだ斬り結んでいた。
だが、先ほどまでの攻防とは違う。
朱烈の双刃は荒れ狂わず、ただ確かな軌跡だけを残して揺らぎ、
天鳳の黒刃もまた、ひと振りごとに迷いも焦りもない。
振り下ろすのではない。
斬り払うのでもない。
二人は今――互いの「生」を見ていた。
火は風を求め、風は火を抱いた。
その中心に、戦場の重心が吸い寄せられていく。
誰も近づけない。
誰も踏み込めない。
あれは戦いではなく、
生の形を確かめる儀だった。
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蒼龍軍の前列では、兵たちが息を整えもせず、ただ凝視していた。
「……将軍が、怯んでいない。」
「いや……あの炎に、呑まれていない。」
「風が……炎を抱いている……」
誰も声を荒げない。
叫びがこの戦に無粋だと、誰もが本能で悟っていた。
彼らは知ったのだ。
あの場に声は不要。意志だけがある。
槍を支える腕は重い。
だが、腕は折れていない。
足は震えている。
だが、地を離れてはいない。
——踏みとどまっている。
それだけで十分だった。
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一方、金城軍はすでに限界に近かった。
「朱烈将は……優勢のはずだろ……?」
「炎が……押して……いるのか……?」
「いや……押してない……どちらも落ちていない……」
「じゃあ……どうなる……?」
「わからん……!」
答えのない問いが積もっていく。
士気は叫びで高まるものではない。
確信でしか立ち上がらない。
だが今、金城軍にはその確信がない。
嶺昭は歯を噛み、拳を握り、しかし叫ばない。
(声を荒げれば、崩れる。)
彼は戦を知っていた。
音は軍を壊す。
静寂もまた、軍を壊す。
(この均衡の中では、声は“隙”となる。)
嶺昭は叫べなかった。
いや――叫ばないことを選んだ。
だが、それは同時に追い詰められている証でもあった。
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私は紫叡に乗りながら、その中心を見つめていた。
雷毅は隣で私を支えていたが、もはや私は彼の腕に重さを預けていない。
「曹華……」
「うん。もう大丈夫。」
本当に、そうだった。
身体はまだ痛む。
落馬の衝撃は残っている。
でも心は、もう折れていない。
(私は……見たからだ。)
第七砦で。
焼けた梁の下で。
壁に残った爪の痕に触れて。
火が奪ったものではなく——
燃え残った願いを。
それは叫びではなかった。
悲鳴でもなかった。
声すら残らず、
ただ、そこに“生きたい”が在った。
(私は、その願いを抱いている。)
私は炎を拒まない。
でも炎に呑まれもしない。
(私は、炎のあとを運ぶ者。)
それは、誰にも奪えない「私の形」だった。
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そのとき、朱烈が声を放った。
「天鳳。」
炎の奥で微笑む顔は、泣きたいほど美しかった。
「そなたは、なぜ斬る?」
天鳳は答えた。
「生かすためだ。」
「生かすために、斬ると。」
朱烈は、風に髪を揺らしながら言葉を紡ぐ。
「ならばそれは、そなたも 生きたい という証だ。」
黒刃が、微かに揺れた。
「燃えたくない者は、斬れぬ。」
「……」
「そなたは、燃えたくないのではない。
燃えれば、『守れなくなる』ことが怖いのだ。」
炎がゆらりと揺れた。
天鳳の瞳が、静かに――深く――揺らいだ。
(将軍……)
私は息を呑む。
(あなたも……あの日の火を見て、残した人だ。)
朱烈は双刃を肩に収めるように構え直した。
「守る者は、燃えねばならぬ。
そうでなければ、誰も救えぬ。」
その言葉は、鉄でも炎でもなく、
祈りのように静かだった。
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天鳳は、ゆっくりと息を吸った。
「……そうだな。」
黒刃が、わずかに揺れた。
「私は、燃えることを選ぶ。」
朱烈が笑った。
焔のような笑みではない。
人として、ただ嬉しくて笑った。
「ならば、ここからだ。」
炎が立ち上がる。
風がそれを抱く。
戦場が、再び動き始めた。
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「行くよ、紫叡。」
私は槍を握り直す。
雷毅が頷く。
「曹華……行くなら、俺もだ。」
「うん。一緒に。」
(火は燃える。
風は抱く。
なら私は——)
灰より昇る声となって、前へ進む。
紫叡が地を蹴った。
戦場は、ついに流れ始めた。
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