第十六章拾漆 風は炎を抱き、炎は風を読む
火と風が、戦場の中心で交わり続けていた。
朱烈の双刃は舞うように閃き、炎の尾を引く。
天鳳将軍の黒刃は風そのもののようにしなり、炎の軌道を断つ。
激突と呼ぶには、あまりに静かだった。
剣戟は確かにぶつかっている。
だがそこには怒号も、憤怒も、憎悪もない。
あるのはただ――意志だった。
朱烈の足運びは軽い。
砂を踏む音はほとんどなく、炎だけが揺らぐ。
しかしその一閃には、焼け落ちた砦の記憶が宿っている。
一方、天鳳は一歩も乱れない。
姿勢は崩れず、呼吸は浅くならない。
その黒刃は、迷わず炎へ向けられ続けている。
どちらも揺れない。
どちらも退かない。
だからこそ――この場にいるすべてが息を止めていた。
蒼龍軍は槍を下げたまま、前へ進めない。
金城軍も盾を構えたまま、足が動かない。
嶺昭は、大将軍でありながら、ただ戦場の中心を見つめるしかなかった。
それは戦ではない。
存在と存在の衝突だった。
---
私は雷毅に支えられたまま、天鳳と朱烈を見ていた。
落馬の衝撃はまだ肋に響く。
だが、いま痛みは「ただの痛み」だった。
(私は、ここにいられる。)
それが、確かだった。
紫叡は私の横に立ち、呼吸を合わせてくれている。
雷毅は私が倒れないように腕を支えつつ、視線は戦場から離さない。
「……曹華。」
雷毅の声は低い。
戦場でも鍛錬でもない、ただ“人の声”だった。
「本当に、大丈夫か。」
「うん。」
嘘ではなかった。
私の心は、この戦いを見て揺れている。
けれどそれは“崩れ”ではなく、“響き”だった。
(私は、目を逸らしていない。)
---
朱烈が双刃を引いた。
炎が、ひとつ大きく脈を打ったように揺れる。
「天鳳。」
朱烈の声は静かだった。
炎にしては、あまりに穏やかだ。
「そなたは、まだ燃えておらぬ。」
天鳳の黒刃は止まらない。
だが、その言葉に――わずかに呼吸が沈んだ。
「私は燃えない。燃えれば、道を失う。」
「違う。」
朱烈は首を振った。
その仕草に、焔は揺れない。
「そなたは、燃えることを恐れたまま生きてきた。」
雷毅がわずかに息を呑む。
紫叡が耳を振る。
私は――胸が締め付けられた。
(将軍は……あの日を、生き延びた。)
第七砦で叫んだのは将軍ではない。
天鳳は焼かれていない。
だが、生き残った者には、生き残った者の痛みがある。
焼け跡に立ち、名を呼ぶことすら叶わなかった痛み。
残された手の温度を思い出そうとしても、もうない苦しさ。
朱烈は、それを知っている。
「燃えなかった者は、燃えた者より痛む。」
その言葉は、炎ではなく――真実だった。
天鳳は、黒刃を少しだけ下げた。
揺れではなく、認めるための沈黙。
「……そうかもしれん。」
朱烈は微笑む。
獣でも、女でも、戦でもない。
ただ、“生きている者”の笑みだ。
「ならば、そなたは燃えねばならぬ。」
「燃えれば、守れぬ。」
「燃えねば、終わらぬ。」
天鳳の指先に力がこもる。
黒刃の切っ先が朱烈をまっすぐ射る。
「炎は、人を焼く。」
「炎は、人を抱く。」
「生を奪う。」
「生を求める。」
二人の声が重なった。
それは、争いではない。
ただ――生の定義の相違。
---
(そうだ。)
胸の奥に、ひとつの像が浮かんだ。
第七砦の屋根の残骸。
溶けた鉄が固まり、腕の形を残したまま。
壁に残った爪痕。
声なき「生きたい」の跡。
(私は、その火を見た。)
私は焼かれた者ではない。
炎に呑まれた者でもない。
私は――
炎が過ぎ去ったあとに、残った者。
それは、弱さではない。
燃えなかったのではない。
(私は、“燃え残りを見た者”だ。)
その火は、まだ心の奥でくすぶっている。
燃え上がらない。
消えもしない。
だからこそ、私は立っている。
「曹華。」
雷毅が呼ぶ。
「……大丈夫。」
私は息を吸った。
(私は、火に呑まれない。
でも火から目を逸らさない。)
朱烈は炎を燃やす者。
天鳳は炎を終わらせる者。
そして私は――
炎の跡を、生へ繋ぐ者。
その答えは、誰でもなく、私自身が選んだものだった。
---
その瞬間、朱烈と天鳳の間の距離が、わずかに縮んだ。
風がそっと炎に寄り添う。
炎がそっと風を照らす。
二人は、互いの核へ手を伸ばしつつあった。
決着ではない。
破壊でもない。
これは――
生の形を確かめるための間。
戦場に、深い静寂が降りた。
ここから先は、もう誰も止められない。
---




