第十六章拾弐 火、野を渡る
朱烈が戦場の中心へ歩み出ようとした、その背に。
「朱烈。」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
朱烈は振り返らない。
ただ、肩越しに、ゆるりと視線だけを返した。
炎ではなく、揺らめく灯火のような目。
「妾を呼ぶか。」
「お前は……あの日の火だ。」
第七砦。
あの炎。
焼け落ちる木材の音。
皮膚が裂け、声が声でなくなっていく中——
燃えたのは、砦でも兵でもなく。
(私だ。)
「……あの日、私は死んだ。」
朱烈の目が細められる。
「ならば、今ここにいるそなたは何だ?」
問いではなく、確かめるための言葉。
私は槍を握り直した。
紫叡が、私の呼吸に合わせて耳をそっと揺らす。
「私は、“死んだあと”に残ったものだ。」
朱烈は、その答えを聞いて、微かに息を漏らして笑った。
炎の女の笑い。
戦に身を置く者だけが持つ、静かな肯定。
「――よい。」
朱烈が、ほんの一歩だけ戻った。
距離はまだ遠い。
だが、存在が近づく。
「そなたは、すでに一度燃え尽きた。
ならば、妾は“その灰を吹かす風”になろう。」
「……燃やすためにか。」
「燃えるかどうかは、灰が決める。」
双刃の刃先が、砂へと触れた。
突き立てるでもなく、ただ置くように。
炎はそこで止まる。
「曹華。妾はな、燃えるものは美しいと思う。」
朱烈の指先が、炎の揺らぎを示す。
そこに敵意はなかった。
ただ、生を尊ぶ熱だけがあった。
「燃えたくて燃える炎は、弱い。
けれど——燃えたくなくとも燃える炎は、強い。」
「……それが、お前の戦い方。」
朱烈は頷かない。
否定もしない。
ただ、微笑む。
「妾はそなたを焼きたいのではない。
そなたが燃える瞬間を、見るために来た。」
(私が……燃える瞬間。)
答えはまだない。
だからこそ、私は言う。
「私は、自分で決める。」
「うむ。決めるがよい。」
朱烈は背を向ける。
だが去らない。
戦場の中心ではなく、《私の前》に立つために歩を止める。
炎と刃が、ただ対峙する。
風が呼吸を運び、沈黙が胎動する。
朱烈が双刃を持ち上げた。
「では、試そうか。」
私も短槍を構えた。
(揺らがない。
燃えない。
折れない。)
紫叡の呼吸と、私の呼吸がひとつになる。
「一太刀。」
それは挑発ではなく、礼。
「受けよ。」
私は頷いた。
「――来い。」
火と刃はまだぶつからない。
ただ、互いの“生”だけが、重なり合う。
そして、その 静止 のあと——
戦場が、動き始めた。
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私と朱烈は同時に動いたわけではない。
どちらも、まだ踏み込んでいない。
だが、呼吸が交差した瞬間に、戦場が動いた。
砂丘の上を渡る風が、一転して熱を帯びた。
空気が、焼かれている。
朱烈は歩き始める。
ただ、それだけ。
しかし、風が朱烈の歩みに従った。
炎が生まれたわけではない。
火は上がっていない。
それでも戦場の兵たちは、胸を焼かれるような感覚に襲われた。
「なんだ……息が……熱い……!」
「喉が、焦げるみたいだ……っ」
蒼龍軍の前衛がざわめき、陣がわずかに乱れた。
わずか——だが、それだけで充分。
わずかな乱れは、戦場において致命である。
一方、金城軍は違った。
朱烈の炎に、呑まれた。
「行けええええっ!!」
「押し込める! 今だ!!」
戦術でも、号令でもない。
衝動そのものの突撃。
砂塵を蹴り、怒号が波となって押し寄せる。
盾がぶつかり、槍が絡み、前列の兵が押し戻される。
「防衛線、崩れるぞ! 支えろ!」
「後列、前へっ——ッ!」
蒼龍軍の列が揺らぎかけた、その瞬間——
「退くな。」
低い声が、戦場の中心を貫いた。
天鳳将軍。
黒刃の剣が、空気を断ち割るように抜かれる。
彼は前へ踏み出していた。
後衛にも、指揮台にも立たない。
前線そのものに立つ将軍。
「蒼龍は退かぬ。退けば、国が沈む。」
その声は叫びではない。
しかし、兵の足は止まる。
「立て。」
一言。
それだけで、崩れかけた前衛の呼吸が戻る。
「は……はいっ!」
槍が再び構えられ、盾が前へ押し出される。
(……将軍は、炎に呑まれない。)
彼は、燃えることも、燃やされることもない。
ただ、そこに立つ。
(だから、戦場が持ち直す。)
だが、炎は止まらない。
朱烈は、まだ何もしていない。
双刃すら振るっていない。
ただ、歩み、呼吸しているだけ。
それだけで戦場全体が焼けようとしている。
「曹華。」
天鳳の声が、戦場の熱の中でもはっきりと届いた。
「お前は——燃えぬ側に立て。」
風が向きを変えた。
紫叡が地を蹴る前に、私は息を整えた。
「はい。」
声は揺れない。
朱烈の炎が、戦場を呑み込む前に。
「鎮めろ。」
一言。
それは命令ではない。
信頼だった。
(火を断つのではない。
火に呑まれた心を、断ち切る。)
私は紫叡の首に手を置き、呼吸を合わせる。
「行く。」
紫叡が地を蹴り、乱戦へ踏み込む。
槍が火を斬るのではない。
槍は、空気と心を断つ。
金城軍の兵と刃が交錯する。
私の腕は震えない。
紫叡の足は迷わない。
朱烈の炎は触れようとする。
(私は——燃えない。)
だから、断てる。
私は短槍を横に払った。
炎ではなく、衝動を断つ。
「——っ!?」
突撃していた兵が、わずかに息を止めた。
それだけで足が止まる。
さらにもう一人。
そして、もう一人。
炎の勢いが、わずかに鈍る。
(まだ……届く。)
息を吸い、槍を握り直す。
戦場に流れていた熱が、ほんのわずかに冷えた。
その刹那——
朱烈が、こちらを振り返った。
炎はまだ爆ぜていない。
だが、その瞳は燃えていた。
「ほう。」
その声は愉悦。
「燃えぬだけでなく、火を断つか。」
朱烈が一歩、こちらへ踏み出した。
風が揺れる。
砂が舞う。
戦場の熱が再び高まる。
(来る——)
私と朱烈。
火と刃。
「では、次は——」
朱烈は微笑んだ。
「そなたの“中”を、燃やす。」
その瞬間、戦場全体に炎が走った。
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