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三華繚乱  作者: 南優華
第十六章
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第十六章拾壱 燃えぬ刃、揺らがぬ影

風が、熱を帯びた。


 いや——

 風そのものが、朱烈の炎に「焼かれ始めた」。


 砂が熱に浮き、空気が歪む。

 遠くの喧噪が、波の奥で揺らぐようにぼやける。


 紫叡が首を振り、鼻を鳴らした。

 皮膚の上に、細かい熱の針が刺さるようだった。


 朱烈は一歩、こちらへ歩む。

 ただ歩くだけで、地面に影の代わりに揺らめく赤が落ちる。


「なあ、曹華。」


 その声は、焚火の前で髪をほどいた女の声のように艶やかだった。


「妾は、そなたを見るたびに思うのだ。」


 朱烈の髪が、風に舞う。

 本当に燃えているわけではない。

 だが、炎以外の何物でもなかった。


「なぜ、そなたは燃えぬ?」


 嘲りではない。

 愉悦と、好奇心と、獣のような直観。


 私は槍を下ろしたまま答える。


「私は——燃えないように生きた。」


 朱烈は笑う。

 瞳がきらめき、唇に残酷な優しさが浮かぶ。


「燃えたことが、あるのだな。」


 胸が、わずかに脈を打つ。


 第七砦。

 炎。

 叫び。

 その場におらず、たまたま生き残ったという事実だけが、まだ続いている。


「……あの日、私は焼かれた。」


「ならば。」


 朱烈は歩みを止め、空気の中心に立った。


「そなたは、もう一度燃えればよい。

 一度燃えて、なお残る火は——本物だ。」


 その言葉は、殺意よりも重かった。


 朱烈は両手を広げる。

 双刃はまだ抜かない。

 それでも空気は炎の色に染まる。


「さあ、曹華。妾が火を与えよう。」


 挑発。

 愉悦。

 そして、戦を望む者の純粋さ。


 私は静かに首を振った。


「私はもう燃えない。

 燃えてしまったら——道を見失う。」


 朱烈は目を細める。


「それが“刃”の答えか。」


「そうだ。」


 朱烈は息を吸い——

 微笑した。


 美しく、獰猛に。


「よい。」


 風が爆ぜた。


「妾は、そなたを燃やすために来た。」



---


 砂丘を越えて吹く風が、熱を孕んだ。

 朱烈はまだ双刃を抜かない。

 だが、その立ち姿だけで、戦場の重心がひとつ、こちらへ傾いた。


 炎は、触れれば焼けるものだと思っていた。

 だが朱烈の炎は、触れる前に空気を変える。


 紫叡が耳を伏せる。

 私はその首筋に掌を置いた。

 落ち着け、ではない。

 ただ、共に立つという呼吸。


「妾は火。そなたは刃。」


 朱烈は言う。

 声は焚火の奥に潜む赤のように、柔らかいのに燃える。


「火と刃は、共にひとつの戦場を生む。

 どちらが主か、見せるがよい。」


 私は短槍を水平に構えた。

 切っ先は朱烈へ向かない。

 向ける必要がない。


(この人は、正面から燃やす。

 だから私は、燃えない場所に立つ。)


 朱烈が一歩、踏み出した。


 踏みしめた地が——赤く揺れた。

 火が散ったのではない。

 空気が燃えた。


 紫叡が、瞬時に前脚を半歩引く。

 熱を避けるのではなく、足場を確かめるため。


「……良い馬だ。」


 朱烈は嬉しそうに笑った。

 戦場で、命を奪い合うその最中で。

 だがその笑みは、侮りではなく、肯定だった。


(この人は、戦いを“好き”なんだ。)


 朱烈が、ついに双刃を抜いた。


 炎が一気に溢れた。


 刃そのものが燃えているわけではない。

 振り抜いた軌跡が、大気を擦り、火花を散らしている。


 私は短槍を引いた。

 踏み込みは浅く。

 呼吸は深く。


 朱烈が地を蹴る。

 砂丘の影を引き裂く速さ。


 炎の軌跡が、視界に咲く。


 私は槍を立てる。

 防ぐためではなく、境界を描くため。


 刃と槍が触れた。

 その瞬間——


 火の奔流が、私の頬を撫でた。


 熱い。

 だが、焼けない。


(私は——燃えない。)


 朱烈の瞳が揺らいだ。

 歓喜にも似た驚き。

 炎が人を照らすときに見せる、純粋な輝き。


「……本当に、燃えぬのか。」


「私はもう、燃え尽きたから。」


 朱烈の笑みが、深まった。


「ならば、妾は“燃え残り”を探す。」


 双刃の角度がわずかに変わる。

 狙いは、命ではなく、心。


(そう来るか——)


 私は紫叡の腹を軽く蹴り、半身で 受けて流す。


 刃と刃はぶつからない。

 火と風が擦れ合うだけ。


 一撃。

 二撃。

 三撃。


 どれも決着にはならない。

 だが、どれも互いの核を見せる。


 朱烈は笑う。


「そなた、火に触れながら死なんか。」


「私は死なない。」


 たとえ炎でも。

 たとえ黒龍宗でも。


「私は、生き延びるためにここにいる。」


 朱烈の炎が、ふっと揺らいだ。


「……よい。」


 双刃を引く。

 炎は引かず、余韻だけが残る。


「そなたは、“まだ燃えない”。

 だから妾は、火を起こす。」


 朱烈は背を向けるでも、退くでもなく——

 そのまま戦場の中心へ歩み出た。


 炎が、地を染めていく。


(止めなければ、戦場が燃える。)


 だが私は槍を下ろしたまま、息を吸った。


(まだだ。これは“触れただけ”。

 次は——試される番。)


 紫叡の呼吸が落ち着く。

 私の心臓も、それに合わせて静まる。


 風が、炎の名を運んだ。


 朱烈。


 その名は、戦のはじまりではなく、

 火が立ち上がる予兆だった。



---

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