第十六章玖 断ち切る刃
紫黒の幕が揺れたのを見た瞬間、私は紫叡を走らせていた。
(あれだ。)
金城ではない。蒼龍でもない。
黒龍宗が、戦を“炎”に変えるために置いた手。
砂丘の影から現れた影は、黒布の外套に身を包んでいた。
鎧はない。守りは捨てている。
光を反射する飾りもない。
ただ、速く殺すためだけに削られた身体。
紫叡の脚が地を蹴る。
砂と土が混じった匂いに、火薬の焦げた香りが溶けて流れる。
その空気を肺に吸い込むと、胸の奥が熱を帯びる。
(来い。)
影はこちらを見ない。
ただ、下半身の捻りだけで 走り出る。
速い。
地を滑るのではない。
踏みしめてもいない。
ただ、前へ跳ぶためだけに足を使っている速度。
(……馬と同じ速度で、地を走る?)
紫叡が一拍、蹄を強く踏む。
私は鞍の上で体重を前へ寄せる。
風が耳を裂き、戦場の喧噪が遠のく。
影の手が動いた。
細く、骨のような刃が抜かれる。
反りはない。
斬るより、刺して殺すための形。
私は短槍を逆手に握り直す。
一撃目。
刃と槍がぶつかった瞬間、火花ではなく 金属の悲鳴が走った。
響きは、腕ではなく、肩の奥に食い込む。
(重さはない——軽い。
だが、速い。
振りかぶりもためもない。
斬るためじゃない、殺すための刃。)
影の重心が沈む。
地面の砂がわずかに跳ねる。
(下から来る——!)
「紫叡!」
呼ぶより早く、紫叡は前脚を跳ね上げていた。
蹄鉄が刃を弾く。
キンッ。
乾いた小さな音。
でもそれは、確かに殺意の軌道を逸らした音だった。
影は後退した。
跳ねるように。だが重心は揺れない。
(……生き物じゃないみたいな動き。)
呼吸の音が聞こえない。
筋肉の震えが見えない。
感情が見えない。
(合わせたら、殺される。)
なら――合わせない。
私は紫叡の首に掌を添え、ほんのわずか、指先で「間」を示す。
(前へ。速く。短く。引いて、また前。)
紫叡が地を 断ち切るように走る。
影が横へ跳ぶ。
私は追わない。
影は速度で殺す。速度を追いかける者は、速度に殺される。
影が再び踏み込む。
刃が今度は上から落ちる。
私は槍を立てて受ける。
肩、腰、脚へ力を流す。
(遅い。)
いや、違う。
私が、紫叡と同じ速度に乗っただけ。
紫叡が影の足元へ踏み込む。
砂と小石が弾ける。
その一瞬、影の外套が翻り――
黒蓮の刺繍。
(黒龍宗。間違いない。)
第七砦の血と炎が、胸の奥の深いところで揺れた。
けれど、それは燃え上がる熱ではない。
冷えた刃の先に染みるような痛みだった。
(刃は怒りに向けない。
怒りは焦りになる。
焦りは死だ。)
だから息を吸う。深く。
肺に冷たい空気を入れて、心臓の速度を落とす。
(これは復讐じゃない。
“火”を終わらせるための刃。)
私は短槍を、前ではなく 横へ払う。
影の呼吸が、ほんの一瞬だけ乱れる。
(いまだ——。)
私は紫叡と一緒に踏み込む。
「切り開く——!」
叫びというより、ただ息が刃に乗っただけだった。
短槍が描く軌跡は、直線ではない。
馬の重心と同時に動く、弧。
影はその刃を避けた。だが、完全ではない。
黒布の外套の肩口が裂け、深紅が砂に一滴落ちる。
影の動きが、そこで変わった。
(……驚いた?)
違う。
見定められた。
影がこちらを見る。
顔ではなく、姿勢でもなく――心の奥を。
そして理解したのだろう。
私が刃を向けているのは、この影ではなく、黒龍宗そのものだと。
影が、初めて姿勢を低く構えた。
速度ではなく、殺意の形で。
(来る。)
紫叡が前脚を固める。
大地の反発を蹄から背へ、背から私へと伝える。
影が駆けた。
空気が裂ける。
地面が反応する前に、身体が動く速度。
私は槍を構えない。
自分を止めないために、槍を使う。
紫叡が、影と地面の交点に蹄を叩き込んだ。
砂煙が巻き上がる。
視界が白黒に揺れる。
その中で、刃が交差した。
火花は上がらない。
ただ、刃と刃が互いの意志を測り合う衝突。
(私は止まらない。)
(黒龍宗は、ここで止める。)
砂の霧が晴れる。
影の外套が、肩から裂け落ちていた。
内側の肌に浮かぶ刻印が見える。
黒蓮の烙印。
私は息を吐いた。
戦はまだ終わっていない。
けれど――
(見つけた。
斬るべき“手”を。)
---
砂煙が落ちると同時に、影は一度だけ息を吸った。
音はない。
しかしその呼吸に、殺意の形が変わった。
さっきまでの影は——ただ速かった。
斬る、ではない。殺すため。
命を道具のように扱う刃の動き。
けれど今の影は違う。
“こちらを見ている”。
敵を見るのではない。
標を見るのでもない。
同じ地に、立つものとして。
(……やっと、呼吸が届いた。)
私の胸の奥が、静かに緩んだ。
ここで初めて、影は「生きている」とわかった。
なら、殺すのではない。
終わらせる。
影が、一片の無駄もなく、刃を構え直す。
深く、静かに、腰を落とす。
(下段。……最後の一撃。)
紫叡が、私の意図を受け取って脚を固めた。
合図は不用。
呼吸さえ合わせればいい。
影が走り込む。
砂が、足音もなく散る。
私は槍を振らない。
槍は、ただそこにあるだけ。
一歩。
二歩。
三歩——
間が、ひらく。
影の刃が私の喉に届く半寸前、
私は短槍の柄で 刃の背 をそっと押した。
力ではない。
技でもない。
ただ、呼吸をずらした。
それだけで、刃は殺意の軌道を失う。
影の身体が、揺れる。
重心が崩れた。
死角でも、急所でもない。
私は槍を、影の胸に——届くより手前で止めた。
影は、初めてこちらを見た。
目は驚いていなかった。
恐れてもいなかった。
ただ、静かに納得していた。
黒い外套が風に揺れる。
影はひとつ息を吐き、刃を落とした。
その音は、まるで
戦がひとつ終わったことを告げる鈴の音のようだった。
「……ありがとう。」
言葉は喉の奥で消えた。
聞かれなくていい。
届かなくていい。
影は、倒れた。
死んだのだと理解する前に、
砂丘の上で、別の気配が 立ち上がった。
熱でも、殺気でもない。
炎の“色”だけが、空気に滲む。
(……いる。)
黒蓮の香。
その中心に、
炎のようにゆらめく女の影。
黒龍宗・四冥将——
朱烈。
まだ姿は見せない。
ただ「見ている」。
こちらを。
私を。
紫叡が、低く鼻を鳴らした。
(……来る。)
これはもう、戦いではない。
宿された火と火が出会う時だ。




