第十六章陸 国境の火、未だ上がらず
金城国・西山道砦。
乾いた山風が、帆布で張られた幕舎の端をばたつかせている。
冬の冷気は鋭いが、それを押し返すように、砦に満ちる兵たちの呼気は熱を帯びていた。
兵の数はおよそ四千――決して大軍ではない。
だが引き締まっている。
兵たちは盾を磨き、弓弦の張りを確かめ、槍の穂先のゆらぎに目を凝らす。
怠る者はいない。
金城国は、もともと蒼龍国との関係が良いとは言えなかった。
国境線は何度も争われ、奪い、奪われ、返し、また奪い取る。
その歴史が積もっている。
だが今回、王が先んじて戦を望んだわけではなかった。
むしろ王は、戦を避けたかった。
国を守るのに、兵は足りていない。
鋼も、糧も、決して余裕があるわけではない。
それでも――
軍は動くことになった。
理由は複雑ではない。
“そうするべきだ”と、兵も将も思い込まされたからだ。
そう、“思い込まされた”。
砦の奥の幕舎には、ひとりの女がいた。
黒衣、ゆるやかな帯、淡い紫香をまとい、静かに微笑む。
黒蓮冥妃。
金城国にとっては“東方からの賓客”。
客として迎えられた形だが、誰もその正体を問わない。
問うことが――本能的に、怖いのだ。
冥妃は、兵の士気が不自然に高ぶっていく様を眺めていた。
彼女は煽らない。ただ、風を作る。
幕舎の入り口で声がした。
「冥妃殿。」
金城国大将軍 嶺昭 が入ってくる。
武人の気配は、飾らない重さを持つ男だった。
「…蒼龍は、また天鳳将軍が出てきた。」
嶺昭は低い声で言った。
「……あの男がいる限り、蒼龍は崩れん。
我らが勝つ道はあるのか。」
冥妃は微笑む。
燃える火を見るような柔らかさで。
「ありますよ。」
嶺昭の表情は揺れない。
ただ、耳は確かに聞こうとしている。
冥妃は続ける。
「蒼龍国は、均衡で立つ国です。」
「均衡……?」
「力と威、信と名。
本来は、それらが一つに結ばれている国です。」
彼女は指をひとつ、軽く持ち上げた。
「ですが今、その均衡は――三つに割れています。」
「……三つ。」
嶺昭は眉間に深い影を落とした。
語られたのは名や血統ではない。
しかし、意味は理解できた。
冥妃は、まるで琴の弦を絃うように、言葉を置く。
「蒼龍には、寄るべき“心の中心”がありません。」
「中心がなければ、軍は動くが、国は動かない。」
冥妃は頷いた。
「はい。
そして――蒼龍国は今、三方に兵を割いています。」
そこだけは明瞭に言う。
「天鳳将軍は、この金城国に。
麗月将軍は翠林国に。
影雷将軍は東龍国に。」
「三方面同時……本気か。」
「本気でしょう。
蒼龍は、大国ですから。」
そこに皮肉はない。
ただ事実だけが置かれている。
「大国は、崩れ始めてからが速いのです。」
嶺昭は、息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺に刺さる。
冥妃は、そっと嶺昭の視線に触れるように言う。
「金城国が蒼龍を倒すのではありません。
蒼龍は、もともと傾き始めている。
あなたはただ――」
冥妃の声は、焔の底のように低い。
「押せばいいのです。」
嶺昭は、拳を固く握った。
これは、戦を望む言葉ではない。
勝算のある戦の“形”だ。
それが分かる武人だった。
「……分かった。」
嶺昭は背を伸ばし、幕舎を出た。
冬の空気が、血の熱を試すようにまとわりつく。
冥妃は、誰もいなくなった幕舎で、静かに目を閉じる。
(さて――燃えるかしら。)
風が、砦の上を渡った。
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同じ頃、国境道。
蒼龍軍六千は、山道を進んでいた。
隊列は乱れない。
鎧と槍が淡い光をまとい、重厚な影を曳いていく。
その中央、私は紫叡の背にいた。
紫叡の脚は軽い。
だが、決して急がない。
呼吸の深さが動きに現れる馬だ。
私は、彼女のたてがみに指を差し込んだ。
風が手の間に流れる。
冷たいが、心は静かだった。
隣を進む天鳳将軍が声をかける。
「金城軍は、まだ火を上げていない。」
「……はい。」
「だからこそ、今が一番、燃えやすい。」
「火種が撒かれている。」
「そうだ。」
私は一度、空を仰ぐ。
雲は低い。
重い灰の色。
この空の下で、火はまだ上がっていない。
だが――
空気はもう、火を飲む準備をしている。
「曹華。」
「はい。」
「戦は、勝つためだけにあるものではない。」
「分かっています。」
「お前は“刃”だ。
だが――刃は折れる。」
「折れません。」
天鳳将軍は、短く息を吐いた。
「ならば、よい。」
私は紫叡に軽く脚を入れる。
馬が地を蹴り、軍列が進む。
音がひとつに重なる。
その音は、戦の前触れの太鼓よりも重い。
(私は――刃だ。
だけど、斬るためだけにここにいるわけじゃない。)
(あの日、守れなかったものがある。
今、取り戻したいものがある。)
(だから――)
風が、頬を撫でる。
(――進む。)
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