第十六章壱 黒狼の評議
夜の帳は、雪原を覆う黒い幕のようだった。
吹雪は止み、風も静まり、世界には焚き火の燃える音だけが残っていた。火は赤々と息を吐き、時折、乾いた薪を弾いて小さな火の粉を夜空へと散らした。
黒狼族の営地は深い森に囲まれ、外界からの音はほとんど届かない。
焚き火の周囲には、輪を描くように黒狼族の戦士と長老たちが座していた。毛皮と獣骨と鉄片で飾られた彼らは、獣の群れそのままの静けさをまとっている。声はない。
息づかいだけが生き物である証として、かすかに白い霧を作っていた。
密使は火を正面にし、座り位置を与えられた。
招きではなく、観察するための距離――そのことを理解するだけの感覚は、彼にもあった。
火の向こう。
黒狼族の長・黒牙が座していた。
その男は大柄ではない。
しかし、存在そのものが「山」のようだった。
動かず、語らず、それでいて場を支配している。
目は夜の獣の眼――暗く深く、光を捉えるために研ぎ澄まされた静かな凶。
密使は、深く頭を垂れた。
「黒龍宗より言葉を預かり参りました。」
黒牙はすぐには応じない。
焚き火の炎が彼の瞳に映り、ゆるく揺れた。
沈黙。
その沈黙が、すでに“試し”であった。
やがて黒牙は、雪解け水のように冷ややかな声で言う。
「……言え。」
密使は息を整える。
「南で、蒼龍国が揺らぎつつあります。
金城、翠林、東龍――三国が同時に圧をかけはじめました。」
戦士たちの視線がわずかに密使へ向く。
だが、まだ動きはない。
「蒼龍は大国ではありますが、三方に備えねばならぬ。
兵を割かねばならず、戦力は薄まる。」
密使は火に焼かれる薪を見つめながら、淡々と言葉を置いた。
「白陵と蒼龍は長く均衡していました。
しかし――白陵には“北”という不確定があり、蒼龍には“三国”という外圧がある。」
密使は、焚き火の前に膝をつき、雪を指先でなぞる。
白陵。
その上に広がる北方。
そして南側に広がる蒼龍、その周囲の三国。
「――均衡は、もう保てません。」
火が高く揺れた。
焚き火を囲む黒狼族たちの気配が、わずかに変わる。
そこで黒牙が言った。
「北を揺らすために来たのか。」
「いいえ。」
密使は顔をあげる。
黒牙の目と、まっすぐに視線を合わせた。
火の揺らぎが、その間に張りつめた糸を照らした。
「黒龍宗は、北と争う意志を持ちません。」
「言葉でか。」
黒牙の声は低く、深い雪の底から響くようだった。
その声を聞いた瞬間、若い黒狼の戦士たちの背が、ぞくりと粟立つのがわかる。
密使は――答えを急がなかった。
焦ることは、死だ。
静かな呼吸とともに、密使は言った。
「もし、我らが北に刃を取らせたいのであれば――」
火が密使の横顔を照らし、影を引いた。
「この地には来ません。」
黒狼族たちの間に、揺らぎ。
それは動揺ではなく、“こちらの言葉に耳を向ける価値がある”と認めた印。
密使は言葉を続ける。
「北が刃を抜けば、白陵は北へ向きます。
だが今、白陵は南も見ねばならない。
それは白陵にとっても、北にとっても最悪です。」
黒牙は動かない。
だが、場が黒牙とともに動く。
「では、黒龍宗は何を望む。」
「――南が、南だけで燃えること。」
「北は、動かずに。」
「はい。」
短い。
しかし濁りのない応答。
黒牙は目を細めた。
「では、聞こう。」
焚き火がふっと低くなり、風が影を揺らした。
「白陵が弱ったと見て、北に刃を取らせたいか。」
黒狼族たちが、一斉に密使へ目を向ける。
それは、群れの視線だった。
一つでも誤れば、飲まれる。
密使は――微笑まない。
強がらない。
ただ、事実として言葉を置く。
「黒牙殿。
黒狼族が刃を抜けば、白陵は北へ全てを向けるでしょう。
蒼龍は救いに動かず、三国も動かない。」
密使は焚き火の向こうへ視線を投げる。
「そのような戦は、誰の得にもならぬ。」
黒牙の口元が、ほとんど見えない微細な呼吸でわずかに動く。
それは、敵意でも嘲りでもない。
理解。
「……では問う。
北が刃を抜かぬなら、南はどうなる。」
「白陵と蒼龍の境で、争いが始まります。」
「その果てに。」
「――空白が生まれる。」
黒牙の目が、焚き火より深く燃える。
「北が埋めることのできる、広い空白が。」
沈黙が落ちた。
だがそれは、拒絶ではなかった。
黒牙はゆっくりと立ち上がった。
狼皮が揺れ、戦士たちの影が地に長く伸びる。
「夜明け。三部族の長が集う。」
それだけ。
しかし、それは 決定 だった。
「その場で“証”を示せ。
北が動かずとも得るものがあると、示してみせよ。」
「御意。」
密使は深く、深く頭を垂れた。
(――第二段階は、通った。)
だがその先こそが、
黒龍宗が最も踏み込みたい場所であり――
北方が最も噛みつく牙を研いで待つ場所だった。




