第十五章拾弐 戦支度
夜明け前の蒼龍京は、まだ深い薄闇の中に沈んでいた。
冬の名残を帯びた冷気は、街道に、屋根に、兵舎に、白く透明な膜のように降りている。
しかしその静けさは、決して純粋な平穏ではなかった。
――空気が、張っている。
城郭の石壁は、まるで巨大な獣が息を潜めているかのように重々しく、見張りの兵は言葉少なに巡邏を続ける。
まだ太陽は姿を見せぬというのに、どこか、世界のどこかで金属の鳴る音がしたようにさえ思えた。
いや――実際に鳴っているのだ。
戦の気配が、である。
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華陽殿の扉が静かに開く。
天鳳将軍は、長い階段をひとつひとつ踏みしめながら進んだ。
彼の軍衣は夜明け前の蒼を帯び、肩には将軍の証たる朱の布が流れている。
その背は以前より重さを帯びているように見えたが、それは疲労ではなく――覚悟だった。
玉座の間には、わずかな灯だけが揺れていた。
泰延帝が大きな玉座に腰を下ろし、静かに天鳳を待っていた。
天鳳は片膝をつき、深く頭を垂れる。
「陛下。金城国が、国境沿いに三千を展開。
しかし、これは金城単独の意ではございませぬ。」
泰延帝は目を伏せたまま、ゆっくりと息をついた。
「……黒龍宗か。」
「まず間違いございません。」
天鳳の声は低く、揺れなかった。
「白陵国では、黒龍宗が内部からの崩落を狙い、彗天を唆したと聞く。
そして今、我が国においても密使が潜み、親衛隊の心を揺らがせた。」
泰延帝の瞳が細く鋭くなる。
「……では、もはや“待つ”だけでは済まぬわけだな。」
天鳳は深く頷く。
「出陣いたします。
この国の民が炎に呑まれる前に、こちらから動かねばなりませぬ。」
しばしの沈黙。
「首都の防衛はどうする。」
「土虎将軍に任せます。
そして、内偵と治安の総括は――牙們将軍に。」
泰延帝はわずかに目を細めた。
「……牙們、か。」
疑念か、迷いか。
判別のつかない微かな色が、帝の瞳にかすかに揺れた。
だが、最後には静かに頷いた。
「よい。天鳳。そなたに託す。
この国は、そなたの剣によって今日まで立ってきた。」
「は。」
「ならば――今も、それを信じよう。」
帝のその言葉は、玉座の間の光よりも強く暖かく響いた。
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中庭に、朝の光が差し込むより先に――号鼓が鳴った。
「――全隊、出陣準備に入れッ!!」
趙将隊長の声が、城郭を揺らすほどに響いた。
兵舎から次々と兵が駆け出る。
槍を抱え、鎧を締め、馬の手綱を取る音が、石畳に幾重にも広がっていく。
曹華は、胸の前で鎧の帯を締めながら、深く息をついた。
頬に触れる空気は冷たいが、心は不思議と静かだった。
――怖くないわけではない。
だが、その奥には、揺るぎなく燃えるものがあった。
紫叡が引かれてくると、曹華は思わず微笑んだ。
「……行くわよ。また一緒に。」
紫叡は鼻を鳴らし、優しく額を寄せた。
それは人の言葉より雄弁な、共に戦う意思だった。
そこへ、雷毅が歩み寄る。
「曹華。」
呼ばれる声は、以前より深かった。
少年ではなく、武人としての響きを帯びている。
曹華は振り向き、まっすぐ見返す。
「雷毅。準備はできてるの?」
「ああ。……お前はどうだ。」
曹華は短く、しかし揺るぎなく答えた。
「迷いは、もうない。」
雷毅の目が柔らかく細くなる。
「なら、俺はお前の背中を守る。
どんな刃が来ても、決して通さない。」
その言葉は、誓いだった。
曹華は少しだけ目を伏せ、深い息と共に答えた。
「……ありがとう。」
それ以上はもう言えなかった。
言葉にしてしまうには、胸の奥が熱すぎた。
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親衛隊、近衛隊、そして主力の第一遊撃隊。
中庭に整列した兵の数は千に及ぶ。
その前に立った天鳳将軍は、太陽の昇り際の光を背にしていた。
その姿は、まさに“進撃の旗”そのもの。
「――聞け。」
その声が放たれた瞬間、空気が変わった。
「金城国は兵を動かした。
このまま放置すれば、戦火は我らが家々を焼き、民を哭かせる。」
兵たちの指先が震えている者もいた。
だが、それは恐怖ではなかった。
「蒼龍国は退かぬ。
退けば国が死ぬ。
ならば進むのみ。」
天鳳は剣を抜き、天へと掲げた。
「我らが戦うのは、国のためだけではない。
守るべきもののためだ!」
「「――応ッ!!」」
その返答は、天地を震わす咆哮だった。
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馬が嘶き、槍が光る。
旗が風をつかみ、軍列は城門へ列を成す。
曹華は紫叡の背に乗り、陣列の前へと視線を上げる。
風は冷たいはずなのに――頬に当たる空気は温かかった。
雷毅が隣に馬を並べる。
「行こう、曹華。」
「ええ。」
天鳳将軍が、ゆっくりと馬腹を蹴った。
その瞬間――
蒼龍国軍は、動き出した。
風が旗を鳴らし、地を震わせながら、
国境へ向けて――真っ直ぐに。




