第十五章捌 北方の不穏
白陵京に、静かな夕暮れが降りていた。
戦も反乱もない、穏やかな日――そのはずだった。
だが、宮廷の奥、玉座の間には重い気配が満ちていた。
氷陵帝が玉座に腰掛け、その両脇には清峰宰相と霜岳大司徒。
さらに雪嶺大将、凍昊中将、華稜皇子と天華皇女、雪蓮皇女までもが呼び寄せられている。
緊急招集――その言葉だけで、ここに集う誰もがただならぬ事態を悟っていた。
沈黙を破ったのは、扉の向こうから響く靴音だった。
「――近衛隊密偵班・班長、入ります」
恭しく頭を垂れながら進み出たのは、黒い外套を羽織った青年将校。
影の動きを追い、宮廷の内外を監視することを任とする密偵班の責任者である。
彼はひざまずき、深く言った。
「……陛下。黒龍宗の密使、白陵国北方へと退きました」
玉座の間の空気が――震えた。
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氷陵帝の瞳が細められる。
「……北方へ、か」
清峰宰相が息を呑むように続けた。
「北方と言えば、部族連合の領地……。しかし、あの地は恭順の誓いがあるはずだが…」
霜岳大司徒が首を横に振る。
「恭順は建前。北方の者らの忠義は薄い。利益と力を見る者たちだ」
玉座の間の空気がさらに沈む。
凍昊中将が低く呟いた。
「彗天が黒龍宗に堕ちたことは衝撃であったが……やつらは、白華殿を討つことだけが目的ではなかったというわけだな」
「むしろ、白華殿は“始まり”に過ぎぬやもしれませんな」
雪嶺大将の言葉に、誰もが言葉を失った。
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密偵班長が続ける。
「密使は白陵京を離脱後、北街道を経て“霜牙の峡”を越え、北方の部族領へと向かった形跡がございます。逃亡は計画的かつ迅速。おそらく……以前より根を張っていたものでしょう」
氷陵帝の表情は変わらぬまま、しかし声は低く鋭く。
「密使は、どの部族と通じている」
「――“黒狼族”である可能性が高いと見られます」
玉座の間に、はっきりとした不穏が広がった。
黒狼族――かつて白陵国に反旗を翻し、討伐の末に服属した部族。
だが彼らは決して平伏したわけではない。牙を隠していただけだ。
華稜皇子が拳を握りしめ、低い声で言う。
「つまり……黒龍宗は、白華殿個人を狙っていたのではなく――」
「この国そのものを、内側から崩すつもりだったということです」
班長が、静かに言い切った。
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天華皇女が胸元を押さえる。
「……あの日、もし白華殿が本当に斬られていたら……」
雪蓮皇女は唇を噛んだ。
「興華殿も……きっと……」
言葉は、そこで詰まった。
華稜皇子は目を閉じ、長く息を吐いた。
その横顔には、戦士ではなく、人としての苦しみがあった。
清峰宰相は、静かだが抑えきれない怒りを帯びていた。
「黒龍宗……白陵国を“内部から”侵しに来たか。これほどの策を覆い隠していたとは」
霜岳大司徒は眉を寄せる。
「いずれ動くとは考えていたが……まさか、ここまで深く入り込んでいたとは」
雪嶺大将は、ただ静かに言った。
「白華殿が、彗天中将に対して仙術を用いたこと……あれは賭けだった。あの胆力がなければ、我らはまだ敵の影さえ掴めなんだ」
玉座の間に、白華の名が重く残る。
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やがて、氷陵帝が立ち上がった。
その動きだけで全員が膝をついた。
「……この国に迫る影は、もはや小事ではない。」
帝の声は、静かだが揺るぎない。
「黒龍宗は白華を通じて“我らが国の中心”を見極めた。次は、必ず国そのものを取りに来る」
燃えるような瞳で続けた。
「――ゆえに、守る。白華だけではない。興華もだ。あの姉弟は、国が守るべき希望の象徴。」
皇子皇女も、宰相も、大司徒も、将軍たちも――全員が深く頭を垂れた。
帝は最後に言った。
「北方の部族領の動向、即座に監視を強化。黒狼族に不穏の兆しあらば――討つ覚悟を持て。」
その言葉は、宣戦の号令ではない。
――しかし、“嵐が来る”ことを宣した音だった。
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報告を終え、会議が解かれたあと。
玉座の間には、氷陵帝ひとりが残っていた。
帝は静かに呟く。
「白華よ……お前は、なぜそこまで背負うのだ」
答える声はない。
だが、確かに国の夜気が揺れた。
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一方その頃――
白華は、回廊の窓から夕空を眺めていた。
穏やかな風。
庭に落ちた薄桃色の花弁。
興華の笑い声がどこかから聞こえる。
――そのやさしい光景のすぐ外に、闇が迫っていると知る者は、まだ少なかった。
白華はそっと胸に触れた。
(……どれほど嵐が来ようとも。私は、もう逃げない)
夕空の色が、ゆっくりと夜に溶けていく。
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嵐は、もう、目前にあった。




