第十五章陸 宮廷の静穏
白陵国に、ようやく静かな日々が戻りつつあった。
彗天の反逆事件から十日。
あの日の血と炎は跡形もなく消え、回廊の石畳も修復され、破れた窓には新しい硝子がはめられていた。
中庭の花々は再び色を取り戻し、風が通るたびに優しい香りを放っている。
しかし、誰もがその静けさの裏に潜む“何か”を感じ取っていた。
黒龍宗の影が完全に消えたわけではない。
ただ、嵐の前の静穏――それを悟る者たちだけが、その空気の重さを理解していた。
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玉座の間。
氷陵帝は窓辺に立ち、静かに庭を見下ろしていた。
そこでは、白華が興華と共に花壇の手入れをしている。
かつて彗天が暴れ、血が流れたその場所に、今は柔らかな陽光と笑い声があった。
氷陵帝は長く息を吐いた。
「……あれほどの地獄を見た後で、あの娘はあんな穏やかな顔をしているか」
清峰宰相が控えめに口を開いた。
「陛下。白華殿の胆力は常人の及ぶところではございません。ですが……あの強さの裏に、誰よりも深い孤独を抱えておられるやもしれませぬ」
氷陵帝は目を細めた。
「孤独、か……」
ゆるやかに頷く。
「人は孤独を知って、初めて国を背負う覚悟を持てるのかもしれんな」
その声音には、帝としての威厳と、一人の父としての優しさが混ざっていた。
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一方そのころ、華稜皇子は書庫の片隅にいた。
手元の巻物を広げながらも、視線は何度も遠くへ逸れていく。
――白華殿。
彼女が仙術で命を偽り、生きていたと知った瞬間、胸の奥に燃え上がった感情を抑えきれなかった。
それは安堵であり、感謝であり、そして……確かに恋情でもあった。
「……私のような人間が、あの方の傍に立てるのだろうか」
呟いた声は、静かな書庫に溶けて消えた。
白華の聡明さ、穏やかな強さ、それに触れるたびに、彼の心は揺れた。
皇子としての誇りと、一人の男としての想い――その狭間で、彼は苦しんでいた。
「…だが、せめて支えたい。あの人が背負うものを、少しでも」
華稜皇子はそっと筆を取った。
書きかけの政務記録に、白華の提案していた新しい軍制案の注釈を加える。
その筆致は、想いを形にするように、どこか丁寧で優しかった。
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同じころ、雪蓮皇女は宮廷の東庭で琴を弾いていた。
薄紅の花弁が風に舞い、音色と共に空へと流れていく。
その横顔には、静かな微笑みと、隠しきれない切なさがあった。
――興華様。
あの夜、血に塗れた中庭で、ただひとり立ち上がった少年の姿が脳裏を離れない。
彼が流した涙も、彼が叫んだ声も、すべてが心に刻まれていた。
「勇ましく、まっすぐな人……」
呟いた声が震えた。
だが、彼女はその想いを胸に秘めたまま、音を紡ぎ続けた。
雪蓮皇女にとって、興華は決して届かぬ人だった。
姉のように慕う白華の弟であり、国家の恩人でもある。
けれど、それでも心は静かに彼を求めていた。
「……この想い、告げることなどできぬとしても」
琴の弦が、まるで彼女の心を語るように震えた。
優しい旋律が、庭の花々を揺らしながら、空へと消えていく。
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そのころ、回廊では白華と興華が穏やかな午後を過ごしていた。
白華は花壇の縁に腰を下ろし、興華は土をならしながら笑っている。
「姉上、これでいいですか?」
「うん、上手よ。……あなたもすっかり逞しくなったわね」
興華は照れたように笑う。
「姉上を守れなかったと思ったときは、本気で自分を責めました。でも……こうして今、姉上と並んでいられる。それだけで、俺はもう十分です」
白華は優しく微笑んだ。
「あなたの力があったから、私はここにいられるのよ。――ありがとう、興華」
興華は真っ赤になり、言葉を失った。
だが、その照れ隠しの笑顔の奥に、確かな誇りがあった。
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日が傾き、宮廷の屋根が金色に染まる。
風は柔らかく、空は静かだった。
だが、その穏やかな風の底に、かすかな違和の気配が潜んでいた。
北方の哨戒線――そこで、ある報告が届こうとしていた。
「黒龍宗の残党、再び動きあり――」
その報せが都に届くのは、もう数日のことだった。




