第十五章伍 静寂の午後
春を思わせる柔らかな風が、宮廷の回廊を抜けていく。
白華は、手にしていた筆を静かに置き、窓の外を見つめた。
陽光が白い壁に反射して、庭の花々を金色に照らしている。穏やかで、どこか現実離れした午後の光景。
――あの日が、まるで遠い夢のように思える。
彗天の凶行から、まだ数日しか経っていない。
けれど白華にとって、その間の時の流れは奇妙なほどに遅く、そして静かだった。
死を偽り、命を賭けて仕掛けた仙術――分身体を斬らせてまで真実を暴くという手段を選んだあの瞬間。
あの決断を、果たして“正しかった”と胸を張って言えるのか。
時折、そんな疑問が胸の奥をかすめる。
それでも、彼女は生きていた。
息をして、光を感じ、弟と再び同じ空の下にいる。
その事実が、何よりの救いだった。
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「…姉上」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、興華が立っていた。
近衛の制服に身を包み、髪を後ろで結わえた青年。
あの夜、絶望の中で彗天と戦い、そして立ち上がった少年が――確かに成長していた。
「もう訓練は終わったの?」
「はい。雪嶺大将が“休息も戦のうちだ”と仰って。……姉上のところに顔を出したくて」
白華は微笑んだ。
「あなたらしいわね。落ち着きがないのは昔から変わらない」
「……ひどいですよ、姉上」
興華が少し頬を膨らませ、照れ隠しのように笑う。
その笑顔を見て、白華の胸の奥に温かなものが広がった。
もう二度と、この顔を見られないと思ったあの日。
“死”という仮面の裏で、彼女はどれほど息を潜め、耐えていたことだろう。
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二人は回廊を歩いた。
石畳に夕陽の色が差し込み、花々の影が長く伸びる。
「姉上、あのとき……俺、本当に怖かった。姉上が斬られた時、全部が終わったと思いました」
興華の声は低く、どこか震えていた。
白華は立ち止まり、弟の方を向いた。
「興華。あの日、あなたは守ってくれたわ」
興華は驚いたように目を瞬かせた。
「……俺が?」
白華は静かに頷く。
「ええ。あなたが必死に戦ったから、私はここに立っているの。
私はあのとき、仙術で分身体を作り、死を偽り、必死に身を隠していた。彗天の凶行を証明するために。
でもね、あなたの声を聞いたの。
“姉上を殺したお前を許さない”って。あの怒りと涙が、私の胸を貫いたのよ」
白華の瞳が少し潤む。
「あなたの声があったから、私は生きると決めた。生きて、この真実を暴き、この国を守ろうと」
興華の喉が詰まる。
その場で何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。
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「だから、今度は私があなたを守る番」
白華の声は穏やかで、それでいて芯が通っていた。
「どんな嵐が来ても、姉として――もう二度と離さない」
興華は拳を握りしめ、真っ直ぐに白華を見た。
「……姉上。俺、あの日の自分を忘れません。恐怖も、怒りも、全部。
でも――次は、俺が守ります。姉上も、この国も」
白華は目を細め、静かに微笑んだ。
「ええ。期待しているわ、興華」
弟の目に宿る光は、もう少年のものではなかった。
白華はその成長を誇らしく思いながらも、胸の奥で祈る。
――どうか、この平穏が長く続きますように。
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風がふわりと吹き抜けた。
花弁が二人の間を舞い、陽光がそれを透かしてきらめく。
白華はそっと目を閉じ、胸の前で手を組んだ。
「生きるというのは、戦うことだけではないのね。
こうして笑っていられる時間が、何よりの強さなのかもしれない」
興華はその言葉を黙って聞いていた。
やがて、彼もまた小さく頷く。
「……俺も、そう思います」
ふたりは再び並んで歩き出した。
石畳に映る影が重なり、少しずつ長く伸びていく。
その穏やかな時間は、戦乱の記憶を優しく包み込むように静かだった。
そして、遠くの空では、黒い雲がゆっくりと流れ始めていた。
――嵐の前の静けさ。
それでも、いまこの瞬間だけは確かに。
白華と興華、姉弟の絆は一つの光としてそこにあった。




