第十四章拾捌 潜伏した影
白陵宮廷を揺るがした彗天の暴走は、今も石畳に血の匂いを残していた。
その一部始終を、誰も気づかぬ遠巻きから見つめていた存在がいた。黒龍宗の密使である。
彼は宮廷の外縁の屋根に身を伏せ、視界の端で繰り広げられる惨劇を凝視していた。
――白華が斬られ、崩れ落ちる。
――興華が咆哮し、彗天に立ち向かう。
当初、密使は薄く笑った。
「……やったな、彗天。白華は倒れた。これで器の精神は崩壊する」
計画通りだったはずだ。白華を殺せば、興華は絶望の淵に沈み、精神を蝕まれる。黒龍宗はそこに付け入り、龍脈の器を奪うつもりでいた。
だが、密使の顔から笑みが消えるのに、そう時間はかからなかった。
彗天と興華の死闘が始まってしまったからだ。
「馬鹿な……! これでは器ごと潰れてしまう!」
興華が敗れれば、器そのものが失われる。
焦燥が密使の胸を灼いた。彼の使命は「器を壊さぬこと」である。死んではならない。
しかし戦況は、彗天の狂気が支配していたかに見えた。
それでも興華の激情が押し返し、やがて彗天を斬り伏せたのを見て、密使は安堵の息を漏らした。
――だが、その直後だった。
血に染まったはずの白華が、淡い光を纏って蘇ったのだ。
「……な、何だと……!?」
彼の目は驚愕に見開かれた。
仙術――それも、霊力を媒体にした分身体。白華が、彗天のみならず周囲の者たちをも欺いていたと気づいた瞬間、密使の背に冷たい汗が伝った。
「計算違い……いや、想定を遥かに超えている」
この国を惑わす女は、ただの才女ではない。仙術すら駆使し、策を張る胆力を備えていたのだ。
密使は悔しげに歯を噛みしめた。
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その夜、密使は白陵京を離れ、闇に紛れて黒龍宗の本拠へと戻った。
謁見の間に立ち、玉座に腰掛ける黒蓮冥妃へと深々と頭を垂れる。
「……報告いたします。彗天は白華の殺害に失敗。さらに興華との激闘の末に斃れました」
冥妃の瞳が鋭く光った。
「失敗……だと?」
「はい。白華は仙術を用い、霊力で作り出した分身体を斬らせていたのです。彗天は欺かれ、皆も白華が死んだと思い込んでおりました。だが実際には、白華は生きております」
静かな報告の声に、冥妃の吐息が鋭く漏れた。
「愚か者め……彗天は暴走の果てに己の刃を鈍らせたか。まるで使い物にならぬ」
その声には冷徹な苛立ちが滲んでいた。
「暴走し過ぎも考えものだな……。器を奪うどころか、白華と興華を結束させただけではないか」
玉座に指先を軽く打ちつけ、冥妃は深いため息を吐いた。
「よい。次の手を考える。だが、白華という娘……必ず斬らねばならぬ。興華を器として縛るには、あの女を断ち切る必要がある」
密使は再び頭を垂れた。
「御意……」
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一方、白陵国では彗天の凶行の後始末が昼夜分かたず進められていた。
中庭と回廊は血と破片で覆われ、宮廷は惨状を呈していた。数日を費やし、近衛兵たちが石畳を洗い、砕けた壁を修復した。
だが、人々の心に刻まれた恐怖と衝撃は、容易に拭えるものではなかった。
彗天の罪状は「国家反逆罪」として公に裁かれた。
彼の階級は剥奪され、一族郎党は処刑。遺体は火葬され、無縁墓地へと葬られることとなった。
その決定に涙を流す者もいた。彗天のかつての忠義を知る兵士たちである。だが、反逆は反逆。氷陵帝は心を鬼にして裁きを下した。
「……裏切りを許せば、この国は瓦解する」
そう言った帝の声は、かつてないほどに重かった。
白華と興華は、帝から改めて呼び出された。
氷陵帝は二人の前で、深く頭を垂れる。
「客将として迎え入れたお前たちが、このような凶行に遭った……せめてこれからは我が庇護の下、心安らかにあれ」
白華は静かに答えた。
「陛下……そのお気持ちだけで十分にございます」
興華もまた、深く頭を垂れた。
「姉を、そして我らを信じていただき……感謝いたします」
その言葉に、氷陵帝は目を細めた。
「この国は、汝らを客将ではなく、もはや家族として遇するつもりだ」
こうして白華と興華は、白陵国において確かな庇護を得ることとなった。
だが同時に、黒龍宗の影はさらに濃く彼らの背後に忍び寄ろうとしていた。
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潜伏していた密使の視線と、冥妃の冷酷な判断。
そして、白陵国で下された厳罰と庇護。
――二国の運命を左右する盤面は、さらに複雑に絡み合っていく。
白華と興華は、ようやく一息ついたかに見えた。だがそれは、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
黒龍宗の真の野望は、未だ牙を隠している。




