第十四章拾伍 曹華の胸中
路地裏での襲撃から数日が経っていた。
曹華は天鳳将軍の裁可により、十日間の休養を与えられていた。表向きは「身体を休めよ」という温情だったが、実際には「親衛隊内の空気を沈めるため」という意味もあった。襲撃の余波は、彼女の周囲に目に見えぬ亀裂を生んでいたからだ。
城下の家に戻った曹華は、静けさの中に居場所のなさを感じていた。窓を開ければ、かつては気さくに声を掛けてくれた商人や子供たちが、今は遠巻きに視線を投げるだけで、すぐに目を逸らす。井戸端で談笑していた女たちが、彼女の姿を見るやひそひそ声を交わし、沈黙する様子も耳に入った。
「……天鳳将軍に寵愛されているからだ」
そんな噂が広まっていることは知っていた。事実ではない。だが、人々の好奇と嫉妬は真実を歪め、尾ひれをつけて走っていく。
親衛隊の空気もまた複雑だった。激励してくれる者もいる。雷毅を筆頭に、心から信じてくれる仲間もいる。だが、わずかに冷ややかな視線を向ける者もいる。その視線は小さな棘のように、曹華の心に突き刺さった。
「仲間を信じたい。でも……」
夜になると、その疑念が重石のように胸を押し潰す。自分は信じるべきなのか、それとも盲目に信じれば裏切られるのか――答えは出ない。
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そんな中で、ただ一つ変わらない存在があった。雷毅だ。
あの日以来、彼は一度も曹華を疑わなかった。稽古場でも真っ直ぐな眼差しで「副隊長」と呼び続ける。休養中の曹華を気遣い、さりげなく果物を差し入れてくれることもあった。
曹華は、その揺るがぬ信頼に救われていた。同時に心が揺れていた。
「……私は彼の気持ちを無視してばかりじゃないか」
戦場で背中を預け合った時間。模擬戦で剣を交え、息を切らしながら笑い合った日々。思い返すだけで胸が温かく、そして苦しくなった。
路地裏での襲撃で、死を覚悟した刹那に去来した後悔は――「もっと雷毅に向き合うべきだった」という悔恨だった。
「……もう同じ後悔はしない」
曹華はそう心に刻んだ。たとえ武人として生きる自分であっても、人の気持ちを無視することは許されない。雷毅の想いを知りながら背を向け続ければ、自分は大切な何かを失うだろう。
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その夜。
曹華は机に向かい、小刀を研いでいた。槍を磨くのではなく、小さな刃を丁寧に磨く作業に没頭することで、乱れる心を落ち着けようとしていた。
と、その静寂を破るように扉が叩かれた。
「曹華、副隊長……いるか?」
聞き覚えのある声に、曹華は驚いて立ち上がった。
「……白玲?」
扉を開けると、そこに立っていたのは同い年の女武官――白玲だった。麗月将軍の親衛隊副隊長を務める彼女は、曹華にとって特別な戦友である。
金城国への遠征、第七砦での地獄を共にくぐり抜けた相手。その時に交わした沈黙の絆は、言葉以上に強かった。
「久しぶりだな」
白玲は柔らかく笑ったが、その目は曹華を案じる光で満ちていた。
「休養中だと聞いて……迷惑かと思ったけど、どうしても顔を見に来たんだ」
曹華は一瞬ためらったが、すぐに頷いて彼女を招き入れた。
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燭台の火が揺れる部屋で、二人は机を挟んで向き合った。
「……街で噂を聞いた。お前が襲われたって。しかも仲間に……」
白玲の声は低く、震えていた。
曹華は小さく苦笑を漏らした。
「大したことじゃないよ。生きている。それで十分だ」
「大したことじゃないわけないだろ!」
白玲は机を叩き、声を強めた。
「曹華……お前はいつもそうだ。笑ってごまかす。でも私には分かる。あの地獄絵図の第七砦で、……一緒にいた私には、お前の無理が分かるんだ」
曹華は言葉を失った。第七砦――あの地獄の記憶。焼け焦げた屍、焦げついた血と肉の臭い。あれは忘れようにも忘れられない。
「だから、心配なんだ」
白玲は静かに続けた。
「誰よりも強くて、誰よりも仲間を思うお前だからこそ、自分を押し殺してるんじゃないかって」
曹華の胸に熱いものが込み上げた。
「……私は、雷毅や仲間を信じたい。でも……怖いんだ。裏切られるのが」
その言葉は、自分でも驚くほど弱かった。だが白玲は穏やかに笑い、首を振った。
「それでいい。怖いと思えるなら、まだ人でいられる。お前は駒じゃない。血の通った人間なんだ」
曹華の目に涙が滲んだ。戦場で流すことのなかった涙が、頬を伝った。
「……ありがとう、白玲」
白玲は無言で頷き、机越しに曹華の手を軽く握った。
その温もりが、冷え切った心に染み渡っていく。
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こうして曹華は、孤独と疑念に押し潰されそうになりながらも、雷毅という変わらぬ支えと、白玲という戦友の来訪に救われた。
仲間を信じていいのか。雷毅の想いにどう応えるべきか。答えはまだ出ない。
だが確かに、胸の奥に小さな灯がともった。
「……私は、まだ人でいられる」
そう自分に言い聞かせる曹華の瞳には、再び立ち上がるための決意の光が宿っていた。




