第十四章拾壱 狂気の終焉
首都へ続く街道を、老将・凍昊はただ一人、馬を駆っていた。
国境砦にて氷雨中将と語らった後も、胸の奥に澱のような不安が残っていた。彗天という男は真っ直ぐ過ぎる。忠義に篤いがゆえに、歪み一つで破滅に向かう。――それが黒龍宗に付け入られる隙だと。
「……嫌な胸騒ぎがする」
雪嶺大将に伝令を任せるには遅すぎると直感した。老いた身であっても、この足で急がねばならぬ。
そして白陵京の城門をくぐった瞬間、地鳴りのような衝撃と、天を覆うほどの殺気が老将の全身を貫いた。
「これは……まさか、彗天か!」
彼は馬から飛び降りると、その足で宮廷へと走った。
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中庭。
そこはすでに修羅場と化していた。
興華と彗天は全身を血に染め、互いの霊力をぶつけ合いながら剣を振るっていた。
剣戟の一撃ごとに石畳が砕け、庭木が裂ける。舞い上がる砂塵は雷鳴のような轟音を伴い、天すら揺らすようだった。
「彗天ッ!」
興華の剣が火花を散らし、狂気の刃を押し返す。
「貴様が……姉上を……ッ!」
怒りと絶望を力に変え、少年は人の域を超える気の奔流を纏っていた。
そして――決定的一撃。
興華の剣が彗天の剣を叩き落とし、袈裟懸けに斬り裂く。
その軌跡は、奇しくも彗天自身が白華の分身体を斬ったのと同じ。
鮮血が飛沫を描き、中庭の石畳を朱に染めた。
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だが、彗天は倒れなかった。
肩を上下させ、血を吐きながらも、なおその足で立ち続けていた。
「まだだ……まだ……! 俺が……この国を……救うのだ……毒華を……絶やし……!」
焦点の合わぬ瞳は狂気に濁り、執念だけが彼を突き動かしていた。
興華にふらつきながら詰め寄るその姿は、もはや将ではなく、戦場に取り残された亡霊のようだった。
「化け物め……!」
興華は剣を構え直し、次の一撃で必ず止めを刺そうとした。
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その瞬間。
甲高い鋼の音が中庭に響いた。
彗天の背後から、別の刃がその体を貫いたのだ。
夕陽を背に立つ影。荒い息を吐きながら剣を押し込むその男――凍昊中将だった。
「……彗天。お前は、もう戻れぬ道を踏み越えてしまったな」
老将の声は怒りよりも無念に満ちていた。
かつて共に戦場を駆けた若き忠臣。その最期を自らの刃で断たねばならぬ悔恨が、彼の手を重くしていた。
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貫かれた彗天の口から、血が溢れた。
それでもなお、掠れた声で叫ぶ。
「俺は……この国を……救うはず……だった……! 毒華……あの……女さえ……!」
震える手でなお剣を握ろうとしたが、その力はもはや残っていなかった。
膝を折り、崩れ落ちる。
その瞳から光が消える寸前まで、彼は「国を救う」という歪んだ忠義にすがっていた。
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「……俺が斬るべきだったッ!」
興華の叫びが中庭に響く。
激情と涙が入り混じり、少年は震える手で剣を握りしめたまま。
凍昊はただ静かに首を振る。
「お前では、取り返しがつかなくなっていた。……彗天は、儂の責だ」
その言葉に、興華は声を失った。
怒り、悲しみ、悔しさ。全てを抱えたまま、中庭に血の匂いと静寂だけが残った。
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夕陽が沈み、中庭を赤黒く染めていく。
倒れた彗天の体は動かない。
だが、その狂気の残滓は、なおも空気に淀みを残していた。
――黒龍宗に堕ちた忠臣の末路。
その姿は、興華の胸に深い傷を刻み込むこととなった。




