第十四章捌 修羅場の幕開け
回廊は赤い夕陽に照らされていた。
だがその赤は、もはや光ではなかった。血と憎悪と狂気の色に塗り潰され、宮廷の柱も壁も、まるで息を呑む観客のように沈黙していた。
白華の「死体」が崩れ落ちてから数刻も経っていない。――否、それは分身体であったが、真実を知る者は誰もいない。
彗天の剣に斬られた姉の姿を見た興華の胸は、絶望と怒りで弾け飛んでいた。
次の瞬間、興華の身体から奔流が吹き荒れた。
目には見えぬ霊力の嵐が走り、気功の波が床を震わせ、窓を揺らし、柱を唸らせる。
練兵場で培った若き力が、悲しみと怒りを燃料として一気に解き放たれたのだ。
雪嶺大将は思わず足を止め、苦く唸った。
「……これが、器の力か」
齢を重ね、幾多の戦場を越えてきた老将ですら、少年の全身から立ち昇る闘気に圧倒されていた。
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「……彗天……お前を殺す!」
興華の叫びは怒号ではなかった。それは魂の叫びであり、霊力そのものが言葉となってほとばしる。
白銀に輝く剣が閃いた。
霊力が宿り、刃は燃えるかのように光を放つ。少年の剣が疾風を巻き込みながら彗天へと襲いかかる。
彗天は狂気に濡れた瞳で笑った。
「来い……器め! 次は貴様の番だ!」
彼もまた、数多の戦場を駆け抜けた将軍。狂気に呑まれた今なお、その身体には戦いの本能と剣技が残っていた。
ギィィン――!
交錯した刃が凄まじい火花を散らし、石畳に衝撃を刻んだ。
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興華は若くして霊力の奔流を得ている。だが、その力を制御する経験は乏しい。
一方の彗天は正気を失っているが、戦場で鍛え上げた剣技は揺るがぬもの。
白華を斬ったという確信が彼に狂喜を与え、さらに異様な力を引き出していた。
「死ねッ!」
彗天の連撃が迫る。狂気に任せた剣筋は荒々しいが、重く鋭い。
「姉上を殺した罪……許さない!」
興華は必死に踏みとどまり、剣に霊力を纏わせて押し返す。
火花が散り、壁の絵画が剥がれ、窓の格子が震えた。
回廊はすでに戦場だった。
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雪嶺大将は二人の攻防を見守るしかなかった。
近づけば、霊力と気功の衝撃波に巻き込まれる。老将ですら命を落としかねない激流。
「……このままでは、どちらかが死ぬ」
胸中で呻きながらも、止める術を見つけられない。
(彗天……なぜだ。なぜ貴様が……)
かつて忠義の士と信じた部下の変貌は、雪嶺の心を抉った。
そして同時に、興華の「器」としての力があまりにも鮮烈であることも理解した。
老将の目に、一瞬の迷いが宿る。
――この戦いを止めるべきか、それとも器の覚醒を見届けるべきか。
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「毒華は俺が斬った! 次はその弟だ! この国を蝕む忌まわしき血を、俺が断つ!」
彗天は叫び、剣を振り回した。
その声は狂気に満ちていたが、剣筋は鋭く研ぎ澄まされていた。
長年積み上げた技が、狂気の焔でさらに尖った刃となっている。
「黙れッ!」
興華は反撃に転じる。
霊力を纏った刃が白銀の弧を描き、彗天の肩口をかすめた。
血飛沫が舞う。だが彗天は痛みをものともせず、口角を吊り上げた。
「フハハ! 痛みすら甘美だ……! もっと来い、器め!」
剣戟の轟音が続き、壁の石が砕け、柱に裂け目が走る。
回廊は崩れかけた戦場と化していた。
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興華の剣が全霊の輝きを帯びた。
怒りと悲しみと守るべき誓い――そのすべてが刃に宿る。
「お前を許さない……ここで終わらせるッ!」
興華の絶叫と共に、霊力が爆発した。
彗天もまた剣を振り上げ、狂気の叫びを放つ。
「死ね、器めッ!」
二人の剣が交錯する瞬間――回廊全体が揺れ、轟音と爆ぜる光が宮廷を包み込んだ。
兵士たちが遠くからその閃光を見て息を呑み、侍女たちが悲鳴を上げる。
雪嶺は奥歯を噛みしめ、拳を握りしめた。
「……やめろ、二人とも……!」
だがその声は、怒りと狂気に呑まれた二人には届かない。
回廊は今まさに、修羅場の幕を開けていた。




