第十四章肆 回廊の対峙(一)
白陵国・宮廷。
その夕暮れ、長い回廊には紅い光が射し込んでいた。西日に染まった柱の影が伸び、石畳は燃えるように照らされている。荘厳であるはずのその光景は、しかし白華には何故か冷たく思えた。
政務補佐を切り上げ、ようやく自室へと戻ろうとしていた。
清峰宰相や霜岳大司徒との議論は今日も長く続き、白華は「私などまだ未熟です」と謙遜の言葉を重ねた。だが宰相らはそれを殊勝と受け取り、逆に褒めそやす。華稜皇子もまた、憧憬に近い眼差しを隠そうとしなかった。
――宰相も、大司徒も、皇子も。
そのすべてが、誰かの目には「寵愛」としか映らない。
白華は小さく吐息をついた。胸に広がるのは決して慢心ではなく、むしろ不可思議な重苦しさであった。
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その背後に忍び寄っていたのは、彗天中将だった。
紫霞の幻術に染められてからというもの、彼の視界は血のように紅い残像に歪められていた。白華の影を見れば、そこには紅き毒華が咲き乱れ、宮廷の空気そのものを腐らせているように感じられる。
「国を惑わす魔性の女め……」
彼の唇から、誰にも聞かれぬ呟きが零れた。
かつて冷徹に計画を練り、経路や時刻を胸中で幾度も描き直していた彼は、今やその冷静を失っていた。残っているのはただ一つ――白華をこの手で斬る、という妄執。
「紅き毒華め……俺が必ず斬る!」
その言葉は、もはや理性ではなく狂気の呻きだった。
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ふと、白華は足を止めた。
背筋を伝う冷気。夕暮れの回廊の端に、ただならぬ気配を感じ取ったのだ。
静かに振り返る。
そこにいたのは、憎悪に顔を歪めた彗天中将。かつては忠義を尽くす軍人として知られた男の面影はなく、狂気の炎がその眼に燃え盛っていた。
「……彗天中将?」
白華の声は決して怯えではなかった。驚愕もせず、ただ相手の異常を冷静に見抜く声音である。
彗天の目には、その態度がさらに癇に障った。
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「白華!」
吐き捨てるように叫ぶ声は、赤い夕日に引き裂かれるように回廊に響いた。
「お前は帝を惑わせ、宰相や大司徒を誑かし、皇子の心さえ弄ぶ! ――国を蝕む紅き毒華だ!」
その剣幕に、白華は眉をわずかに寄せただけだった。
「……私にそのような力はありません。宰相や大司徒が私を信じてくださるのは、ただ政務の助けをしたからにすぎません」
「偽善だ!」彗天が吠える。
「殊勝ぶって、慎ましく振る舞い、皆の賞賛を集める。だが俺には見えるぞ、その背後に蠢く魔性が!」
白華は静かに目を伏せた。心臓は早鐘のように打っていたが、それでも声を震わせはしなかった。
「……あなたが何を見ているのかはわかりません。けれど、私は私。誰かを惑わすつもりなどない」
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彗天の手が柄に掛かる。
鞘走る甲高い音が回廊に響き渡った。抜き放たれた剣は夕日に照らされ、真紅の光を帯びて白華へと向けられる。
「紅き毒華め! 必ず斬る!」
彗天の叫びは、憎悪と妄執に塗り潰されていた。
白華は一歩も退かない。
――私は、興華の姉。ここで怯んではならない。
その言葉が胸の奥で固く鳴り響いた。
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白華は、自らに武の才がないことを知っていた。
まともに剣を受ければ、この場で命は尽きるだろう。
だが、それでも退かない。
時間を稼ぎ、いざとなれば――仙術を。
彗天が知らぬ切り札を発動させる覚悟は、すでに固まっていた。
「……彗天中将。もし私を斬ろうというのなら、どうぞ。ですが――」
白華は真っ直ぐにその瞳を見返した。
「私の命を奪っても、この国の未来を惑わすことはできません。あなたの剣が折るのは、私の身体だけ。志まで折れることはない」
その毅然とした言葉に、彗天は逆上した。
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「黙れ、魔性の女!」
彗天が剣を振り上げる。
夕日の赤光が刃を灼き、狂気の火花が散った。
白華は静かに目を閉じ、一瞬のうちに心を鎮めた。
恐怖は確かにある。だが、それを押し殺してなお、立ち尽くす。
「――私は退かない」
その声がかすかに回廊を震わせた瞬間、鋼の閃きが彼女へと振り下ろされる。
刃と覚悟と狂気が交錯する、寸前の瞬間だった。




