第十四章弐 路地裏の罠(二)
蒼龍京の夕暮れは、朱から群青へと色を変えつつあった。
その片隅、狭い路地裏に響くのは剣戟の音。曹華は小刀一本を頼りに、馬成の剣を受け止め、さらに背後から迫るもう一人――路地裏の男の殺気を躱し続けていた。石畳に靴音が響き、火花が散る。
(まずい……! 防ぎ切るだけで精一杯だ)
曹華の呼吸は荒い。馬成は容赦なく剣を振るい、路地裏の男も無言で隙を突こうと刃を振るう。二人の攻撃は決して連携されたものではなかった。だが、それこそが逆に恐ろしかった。規則性のない刃が曹華を翻弄し、反射と勘だけで身体を動かさざるを得ない。
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その戦いを、住宅の屋根の上から見下ろしている影があった。黒龍宗の密使である。月明かりに照らされるその顔には、愉悦が浮かんでいた。
「……馬成、曹華を殺すこと。それがお前の価値だ」
密使は低く呟き、北叟笑みを浮かべた。
彼の視線は冷酷だった。曹華が苦境に追い込まれていく様を、まるで見世物でも眺めるかのように。彼女の刃がどれほど鋭かろうと、この状況では勝ち目はないと確信していた。馬成を動かし、さらに路地裏の男を仕込んだのは彼自身の策。すべては、この瞬間のためだった。
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「はっ!」
曹華は掛け声と共に小刀を振るい、馬成の剣を弾いた。だが、その隙を狙って路地裏の男の刃が肩口をかすめた。
「っ……!」
鋭い痛みと共に血が滲む。曹華は奥歯を噛み締めた。
(槍さえあれば……!)
悔恨が胸を突く。いつもの稽古場なら、彼女は槍を携えている。だが今日は違った。ただの買い出しに過ぎないと油断していたのだ。その油断が、命取りになろうとしている。
狭い路地、二人の刺客、わずかな小刀。曹華の身体は次第に削られていく。防御に徹するほど傷が増え、体力が削がれる。
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やがて、曹華の心に別の痛みが広がった。
(……私はいままで、何をしてきた?)
雷毅の顔が浮かぶ。幾度も稽古を重ね、互いに限界を押し上げ合った好敵手。そして、彼が時折見せてくれた優しい眼差し。
(私は……雷毅の想いを分かっていた。分かっていたのに……)
剣を受け流しながら、涙がこみ上げそうになった。
「もっと……向き合っておくべきだった……」
心の奥から、深い後悔があふれる。
(私は結局、雷毅を悲しませるだけだ。……もっと、自分の気持ちを伝えればよかった。彼の想いが、嬉しかったはずなのに)
胸に焼き付くのは、稽古後に並んで笑った時間。無骨な剣士の横顔に、ふと宿った照れくさそうな光。
(あれを私は……心の底で求めていた。なのに……私は)
剣が唸り、曹華は再び刃をかわした。息は上がり、視界が滲む。
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「……雷毅」
唇が震え、声が漏れる。
(ごめん……助けて……)
それは誰にも届かぬ心の呟きだった。雷毅を呼ぶ声は、血と汗に濡れた路地裏に虚しく散る。
馬成が剣を構え直す。その眼には、もはや仲間だった頃の温もりは欠片も残っていなかった。
「終わりだ、曹華」
路地裏の男が無言で佇み、二人の刃が同時に迫る。曹華は必死に小刀を構え、最後の力で受け止めようとした。
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屋根の上から、密使はその光景を食い入るように見下ろしていた。
「よい、よい……そのまま絶て」
その表情は愉悦に歪んでいる。曹華が血に沈む瞬間を、彼は心待ちにしていた。
――だが、運命の刃が交錯するその瞬間、曹華の瞳にはなお光が宿っていた。
(……私は、まだ……!)
そのかすかな決意と、心の奥で叫ぶ雷毅の名が、この先の運命を大きく揺るがしていくことになる。




