第十四章壱 路地裏の罠(一)
蒼龍京の街は、夕刻の柔らかな朱に染まっていた。表通りはまだ商いの声で賑わっていたが、曹華はそれを避け、裏通りへと足を向けていた。
(……また、あの目だ)
通りすがりの人々の視線を感じるたび、胸の奥に冷たい違和感が広がっていく。親衛隊の仲間からも街の人々からも、知らず知らずのうちに遠ざけられている――そんな感覚。だからこそ、彼女は休暇の日も人混みを避け、できるだけ人目につかぬ道を選んで歩いていた。
手に提げた布袋には、隊舎で必要な乾物や野菜。少しばかりの香料も忍ばせている。紫叡の食事を整えてやるのも、今では曹華にとって大切な務めだった。槍を振るう日常の中で、せめてもの安らぎをもたらすひととき。
(早く戻ろう。……雷毅に見つかれば、また小言を言われる)
そう思い、足を速める。
やがて、大通りへ抜ける路地裏の出口が見えた。だが、その時だった。
――ふっと、空気が張り詰める。
背筋を走る寒気に、曹華は即座に足を止めた。路地の先に、一人の男が立ちはだかっていたのである。
「……」
薄暗がりに沈むその男は、かつて街角で出会ったことのある、不気味な眼差しを持つ男だった。虚ろなようでいて、どこか射抜くような目。曹華は本能的に危険を察知し、そっと後ろへ身を引こうとした。
(まずい……!)
だが、背後から砂を踏む音が迫る。
「…曹華」
聞き慣れた声に、思わず振り返った。そこにいたのは、親衛隊の同僚――馬成だった。だが曹華は次の瞬間、息を呑む。馬成の手には、既に剣が握られていたのだ。
「馬成……? なぜ……」
困惑の声を発した曹華の耳に、冷たい刃鳴りが響く。馬成が一歩踏み出し、抜き放った剣を月明かりにきらめかせた。
「…悪いな。これも務めだ」
短い言葉と共に振り下ろされる剣閃。曹華は即座に布袋を放り出し、腰の小刀を抜き放った。だが、それは護身のための小さな刃にすぎない。槍ならば自在に立ち回れたが、今日に限って手元にはない。
「くっ……!」
曹華は身をひねり、迫る刃を紙一重でかわす。だが二撃目がすぐさま迫る。剣と小刀がぶつかり、甲高い音が狭い路地に響いた。
背後では、路地裏の男がじっとこちらを見つめている。動く気配はない。だが、その沈黙こそが曹華の心を乱した。
(なぜ動かない……。いや、奴は見届けている……!)
意識を二つに割かれ、曹華は馬成の猛撃を受け流すのに精一杯となった。
「どうした、曹華。いつもの鋭さはどうした」
馬成の声には冷笑が混じっていた。親衛隊の仲間だったはずの男の顔が、今は憎悪に歪んでいる。
(馬成……。どうして……)
問いかけたい言葉は喉で止まる。問うている暇などなかった。馬成の剣は殺意をもって振るわれており、一瞬の油断が命取りとなる。
小刀で必死に受け流しながら、曹華は後退を続けた。だが、路地裏は狭い。やがて背中が石壁に触れる。
(逃げ場が……ない!)
その瞬間、馬成の剣が一直線に突き込まれてきた。曹華は咄嗟に身体を傾け、袖を裂かれながらも壁を蹴って横に跳んだ。
「っ……!」
鮮血が散る。左腕に浅い切り傷。痛みが全身を走る。だが、まだ動ける。
「馬成……!」
曹華は叫んだ。
「お前は本当に、親衛隊の仲間なのか!」
馬成の瞳が、一瞬だけ揺れた。だがすぐに、その光は冷たい影に覆われる。
「仲間……? 笑わせるな。俺たちはただの駒だ。将軍も、隊長も、そしてお前もな」
「……っ!」
その言葉に、曹華の胸に鋭い痛みが走った。自分が抱えてきた疑念と重なったからだ。駒であることを受け入れ、使命のために感情を殺してきた自分――だが、今、その論理が仲間の口から突きつけられている。
馬成の剣が再び唸りを上げた。曹華は小刀で受け止める。金属音が火花を散らし、狭い路地に反響する。
(私が負ければ、ここで終わる……!)
曹華の脳裏に、天鳳将軍や雷毅、そして白華や興華の面影が浮かんだ。
(まだ死ねない! 私は……!)
必死の抵抗が続く中、曹華は相手の剣筋の癖を見極め始めていた。馬成の突きは鋭いが、振り抜きの後にわずかな隙がある。槍であれば一突きで崩せた。だが今は小刀――それでも、打開策はあるはずだ。
曹華は呼吸を整え、次の一撃に全神経を注いだ。
「馬成――!」
叫びと共に飛び込む。刃と刃がぶつかり、金属の震えが掌を痺れさせる。だが曹華は退かない。自らの体重を乗せて押し込み、相手の腕を壁際へ封じ込めた。
「くっ……!」
馬成の顔が歪む。曹華の瞳が燃えるように鋭く輝いていた。
「私は、駒じゃない!」
その声は、自らへの叫びでもあった。
だが、路地裏の男が不意に動いた。無言のまま、地を蹴って距離を詰める。その気配に、曹華の心臓が跳ね上がった。
(同時に来る……!)
剣を押し返しながらも、曹華はもう一つの影に備えねばならなかった。狭い路地に、逃げ場はどこにもない。
そして夜の闇が深まり、彼女を呑み込もうとしていた――。




