第十三章拾捌 彗天の暴発(二)
彗天中将の胸中には、もはや冷静と呼べるものは残されていなかった。
紫霞の幻術に晒された日からというもの、彼の視界には常に、血のように紅い残像がちらついている。白華の姿を見れば、その背後に毒々しい華が咲き乱れ、宮殿の空気さえ濁すかのように見えるのだ。
「国を惑わす魔性の女め……」
彼の心は繰り返しその言葉を呟く。思えば、皇族警護という重責を担うようになってから、白華はどこにでも顔を出していた。宰相の側に控え、若き皇子皇女に寄り添い、政務に口を添える。誰もが彼女を賞賛し、殊勝な振る舞いに拍手喝采を送る――それこそが彗天には堪え難かった。
「紅き毒華め……俺がこの手で必ず斬る!」
胸中でその叫びが高鳴るたび、彼の理性は削がれていった。かつては冷徹に計画を練り、幾度も経路や時刻を描き直した。だが今、残っているのはただ一つ。――憎悪と、行動の衝動である。
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その日の午後、白華は政務補佐を早々に切り上げていた。
宰相や大司徒との議論の場では、彼女はいつものように謙遜し、殊勝な態度を崩さなかった。それを年長の宰相たちが「若きにして慎み深い」と絶賛し、さらには華稜皇子が憧れに近い眼差しを隠そうともしなかったのを、彗天はこの目で見ている。
――あの瞬間、心のどこかで最後の何かが切れたのだ。
興華は近衛隊の練兵場にあり、皇族たちは次の儀礼に移る。白華だけが自室に戻ると分かっていた。
彗天は歩を進める。冷たい石畳に軍靴の響きが反響し、心臓の鼓動と重なって高鳴っていく。
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宮殿の長い廊下には、傾きかけた夕日が差し込み、赤い光が柱の影を伸ばしていた。
白華は一人、静かにその廊下を歩いていた。政務を終え、短く吐息をこぼす横顔は、年相応の娘らしい柔らかさを帯びている。
その姿を見た瞬間、彗天の瞳に狂気の火が灯った。
幻術の残滓が彼女の周囲を赤黒く染め、毒の華が咲き誇るように見える。彼にはもはや、それが幻か現かを判別する力など残されてはいなかった。
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ふと、白華は足を止めた。
背筋を伝う寒気。廊下の奥に潜む気配。
彼女は静かに振り返る。
そこにいたのは、憤怒と憎悪に顔を歪めた彗天中将だった。
普段の冷静沈着な軍人の面影はそこになく、代わりに剣呑な闘志と狂気の焔が燃え盛っていた。
「……彗天中将?」
白華の声は、決して怯えではなかった。だが、目の前の男の尋常ならざる気配を即座に悟るだけの鋭さがあった。
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彗天は言葉を吐き捨てるように叫んだ。
「紅き毒華め! 必ず斬る!」
次の瞬間、彼の手が柄に掛かり、鋼が鞘走る甲高い音が廊下に響き渡った。
抜き放たれた剣は夕日に照らされ、真紅の光を帯びて白華に向けられる。
白華は一歩も退かない。
――私は、曹華と興華の姉。ここで怯んではならない。
胸の奥でその言葉が固く響き渡る。
冷たい刃先がわずかに揺れ、彗天の全身に宿った憎悪が一点に凝縮されていく。
白華は静かに息を吸い、覚悟を決めた。
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「来るなら来なさい、彗天中将……!」
毅然としたその声は、決して小娘のものではなかった。
政務補佐としての知略を備え、戦場を生き抜いてきた者の揺るぎなき意志がそこに宿っていた。
廊下の赤い光の中で、狂気に駆られた武人と、毅然と立つ少女が対峙する。
時間が凍りついたかのように、空気は張り詰め、沈黙は刃よりも鋭く響いた。
彗天の剣が振り下ろされようとした――
その瞬間、世界は緊迫の極みに達した。




