第十三章拾漆 彗天の暴発(一)
夜霧が漂う白陵国の首都。
その暗がりを、紫霞の薄笑いが切り裂いていた。黒蓮冥妃からの命を受けた彼女は、静かに彗天中将の居館へ忍び寄る。彼女の得意とする幻術は、血を流さずとも人の心を腐らせ、狂わせ、破滅へと導く冥府の毒。
「……さあ、彗天。お前の心に巣食う影を、もっと肥え太らせてやろう」
紫霞は白い指先を軽く振る。淡紫の靄が夜風に溶け、ひとつ、またひとつと灯りの隙間から屋内へと忍び込んだ。
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その頃、彗天は机に地図を広げ、皇宮の警護経路を再び見直していた。
(ここなら、白華はひとりになる……興華も皇族も離れて……)
計画はすでに熟し切っている。だが、最後の一歩を踏み出す勇気がなぜか出ない。心の奥で何かが踏みとどまっていた。
そこへ、不意に声がした。
「――彗天。お前は、笑われている」
振り返ったが、誰もいない。だが、次の瞬間、壁に映る影が蠢き、人の形を成す。それは白華の姿だった。
「あなたの忠義など、帝も宰相も必要としていないわ」
「真に頼られているのは私……白華なのです」
彗天の眉間に深い皺が寄る。
「……小娘、貴様……!」
拳を握る。だが、それは幻。影がすぐに溶け、また別の光景が現れる。
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今度は玉座の間。清峰宰相、霜岳大司徒、華稜皇子、雪蓮皇女――皆が白華を囲み、称賛の声を浴びせている。
「白華殿のおかげで政務が進みますな」
「まるで真の宰相のようだ」
「白華様、いつか帝の隣に立たれるお方だ」
その光景を、遠巻きに立つ自分はただ見せつけられている。誰一人、彗天の名を口にしない。
胸の奥で、苛烈な熱が膨れ上がる。
(俺は何だ? 戦場で血を浴び、命を張り、国を守ってきたのは誰だ? 白華ではない! 俺だ! この俺だ!)
だが、周囲は白華を称える声だけで満ちる。彗天の存在など最初からなかったかのように。
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「嫉妬しているのだろう?」
耳元で甘い囁き。紫霞の声が、夢とも幻ともつかぬ響きで頭に流れ込む。
「お前の忠義は報われぬ。だが、ひとつだけ方法がある。――白華を討ち、己が真の忠義を示すのだ」
彗天の瞳がぎらついた。
「……そうだ。俺が、この国を正すのだ。あの小娘を討ち、帝の御心を取り戻す」
胸中で幾度も描いてきた計画が、紫霞の囁きで確信に変わる。
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再び幻が揺れる。今度は白華が華稜皇子と親しげに語らっている姿だった。
「皇子殿下、どうか私にお任せください。帝の政務も、殿下の将来も、私が必ず導きます」
「白華……お前がいてくれれば……」
華稜皇子の頬が赤らみ、白華が柔らかく微笑む。
彗天の中で何かが切れた。
(……ふざけるな! 皇族にまで取り入る気か! この国を蝕む魔性の女め!)
机を叩きつけ、地図が宙に舞う。
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その夜、彗天は寝台に横たわったが、瞼を閉じても白華の幻が消えない。笑い声、称賛の声、皇子の恋慕――それら全てが彼の心を削り続けた。
「次だ……次の機会こそ……必ず……」
囁くように呟く声は、もはや理性ではなく狂気に近い。
紫霞は遠く屋根の上からその様子を眺め、満足げに微笑んだ。
「いいぞ。お前の心はもう、私の幻の檻に囚われた。……次は、刃を抜く番だ」
夜霧が深く降り、首都の灯りを覆い隠していった。
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その頃、白華は宮中の自室で筆を置いた。政務補佐を終え、灯りを消す直前、不意に背筋を冷たいものが走る。
(……誰かが、私を見ている……?)
振り返っても誰もいない。けれど胸騒ぎは消えなかった。
机の上に並ぶ文書を整えながら、白華は小さく息を吐く。
「……曹華、興華……。いま会えたなら、どんなに心強いか」
彼女の呟きは夜に溶け、遠くの幻術師の笑い声と交わることはなかった。
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彗天の自制心は、幻術の罠で少しずつ削がれ、憎悪と焦燥へと変わっていった。
紫霞はその進捗を黒蓮冥妃に報告するだろう。
――「次こそは、白華を討つ」と。
白陵国の空はなお静かに見えたが、その内側には狂気の刃が研がれつつあった。




