第十三章拾伍 白華を追う刃
白陵国の首都に、冷たい風が吹いていた。
その日は、いつもよりも政務の切り上げが早かった。氷陵帝の御前会議に出仕した白華は、宰相や大司徒の補佐を務め、いくつかの案件を整理したのち、早めに下がることを許された。興華は練兵場で近衛兵たちと汗を流し、皇族たち――天華皇女、雪蓮皇女、華稜皇子はそれぞれ次の予定に散っていった。
白華は廊下を歩みながら、ふと立ち止まった。大理石の床に響く自分の足音が、やけに強く耳に残る。胸の奥に、微かに重たい影が差すような気配があった。
(……何か、違う)
そう思うのは初めてではなかった。宮廷に戻ってから幾月、政務に追われながらも、時折、視線のようなものを感じることがあった。だが、今のそれは格別に鋭く、肌を刺す。
白華は背筋を正し、再び歩みを進めた。自室までは、あと幾つかの角を曲がるだけ。
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その頃、廊下の陰で一人の男が息を殺していた。彗天中将である。
彼はこの日のために、胸中で幾度となく描き直した計画を反芻していた。白華の行動、皇族たちの動き、興華の所在。すべてが噛み合い、一人きりとなる瞬間――それが今だ。
(……この時を逃してはならぬ。これ以上の好機は二度とない)
彼の思考は冷静に見えた。経路、時刻、離間の手段。白華を孤立させ、周囲から隔絶する段取りを何度も胸中で描き直した。結果、いま目の前に立っている少女こそ、標的そのものであると確信するに至った。
だが、その冷静さの裏で、心臓は高鳴っていた。熱に浮かされたような昂揚感。もはや忠義ではなく、歪んだ執念と逆恨みが彼を突き動かしていた。
(帝も宰相も大司徒も、この小娘を過大に評価している。あの年端もいかぬ女に何ができる。俺が正すのだ、この国を。この手で!)
彗天の指先が、腰の剣にそっと触れた。冷たい柄の感触が、現実を確かにさせる。
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白華は廊下を歩きながら、再び立ち止まった。
――確かにいる。背後に、気配。
それは、敵意を含んだ重たい視線であった。
白華は呼吸を整え、静かに振り返った。
「……中将殿。どうかなさいましたか?」
そこにいたのは、皇族警護の責任者である彗天中将だった。
彼はいつも通りの武装に身を包んでいたが、その眼差しは異様に鋭く、剣呑な光を宿していた。
廊下の明かりに照らされたその表情は、ただ職務に励む将のそれではなく、深い闇を宿す獣のようであった。
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(ここだ。今ここで。これを逃せば、再び好機は巡らぬ)
彗天は一歩踏み出した。白華と彼との距離はわずか数歩。剣を抜けば、少女の細い首を落とすことなど容易い。
だがその手は、まだ柄を握ったまま動かない。最後の自制心――「時を見誤ってはならぬ」という冷静さが、かろうじて彼を縛っていた。
白華は対するように立ち止まり、目を細めて彼を見据えた。
「……中将殿?」
その声は柔らかくも揺るぎなく、静かな警戒を帯びていた。
彗天は、かつて取り調べで見た少女の瞳を思い出した。あの時と同じ、怯むことのない眼差し。屈辱と怒りを刻み込んだ記憶が、再び胸を灼いた。
(そうだ……あの時から俺は、こいつを憎んでいる。この小娘を許せぬと、心の奥で叫んでいたのだ)
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廊下には二人の気配しかない。外の衛兵も、皇族の気配も遠い。
静寂が重くのしかかり、雨のような気配が彗天の背を押す。
「中将殿……顔色が優れません。お疲れなのでは?」
白華は声をかけながらも、心の奥で鋭い違和感を抱いていた。この男の眼は、忠義の炎ではない。もっと黒く、もっと粘ついた憎悪の影だ。
彗天の唇がわずかに動いた。
「……白華殿。あなたは、この国にとって本当に必要な者なのか」
低い呟きは、刃より鋭く冷たかった。
白華の瞳が細められる。
「……どういう意味でしょうか」
答えは返らない。ただ、彗天の手が剣の柄を強く握り締める音が、耳に届いた。
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(今だ、抜け。剣を抜け。斬ればすべてが変わる。帝の目も、宰相の言葉も、この国の未来さえ……!)
心の中の声が叫ぶ。だが別の声が囁く。
(まだだ。早まるな。時を見誤ればすべてが水泡に帰す。機は必ず再び訪れる。確実に、逃さぬ瞬間に――)
彗天の手は震えていた。柄にかけた指は白くなり、汗が滲む。白華の首筋が目に映るたび、幻のように血の色が浮かぶ。
歪んだ高揚と冷静な抑制。その狭間で、彼は立ち尽くした。
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白華はその場で彗天を見据え、言葉を続けなかった。ただ、相手の心を探ろうとするかのように視線を合わせ続けた。
(……この人は危うい。私に、強い敵意を向けている。だが、それを隠している。いつか必ず牙を剥く。興華……あなたのそばにいない時は、特に気を付けなければ)
白華の胸中に、冷たい波が広がった。
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その後、彗天は無言のまま一礼し、背を向けて歩み去った。
剣は抜かれなかった。だが、彼の背中から漂う気配は明らかだった――「まだ終わってはいない」という気配。
白華はその背を見送りながら、静かに息を吐いた。
(……嵐の前触れだ。いずれ、必ず来る)
そして、誰もいない廊下に、再び白華の足音だけが響いた。




