第十三章拾弐 三段階の引き金
彗天中将は、深夜の執務机に肘をつき、蝋燭の炎を見つめていた。
炎が揺れるたび、彼の胸中ではある計画が描き直されていく。
――白華をどう孤立させるか。
――どの経路で警護の兵を散らすか。
――どの時刻なら皇子皇女と切り離せるか。
――その後の逃走経路をどう導くか。
幾度も、幾度も、頭の中でなぞり直す。
そのたびに計画は研ぎ澄まされ、隙を潰し、より鮮明になっていった。
「……手応えはある」
呟いた声は冷ややかだった。
すでに彼の中で、白華殺害の未来像は形を成しつつある。
黒龍宗の密使に囁かれるまでもなく、彼の心は確実に歪みを増していた。
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数日後、宰相府にて。
皇族に随行し、白華は政務の補佐として席に連なっていた。
「陛下が直々に下された勅命に従えば、この税制の改正は民の反発を招きましょう。
ですが、徴収の仕組みを緩やかに段階分けすれば……」
年若い少女とは思えぬ冷静な口調。
しかし言い終えると、白華は深々と頭を下げた。
「私の考えなど、浅学の身が申すには僭越に過ぎましょう。ただ、国の安寧を思えば……」
その殊勝な態度に、宰相も大司徒も目を見合わせた。
「いや、見事な見立てだ」
「年若きにして、ここまで民政を思う者がいようとは」
白華の謙虚さが、かえって彼女を輝かせる。
その場の空気は自然と白華を中心にまとまっていった。
彗天はその光景を脇で見つめ、歯の裏に舌を押し付けた。
――なぜだ。
俺が幾年も剣を振るい、血を流し、この国を守ってきた。
その功績がここで称えられることは一度もない。
だというのに、この小娘はただ言葉を紡ぐだけで、皆から賞賛を浴びる。
胸の奥に冷たい棘が刺さるような感覚が広がっていた。
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さらに追い打ちをかけたのは、華稜皇子だった。
「白華殿、やはり貴女の見識は素晴らしい」
その言葉に込められた声音の柔らかさ。
少年から青年へと変わりつつある皇子の瞳に宿る光は、純粋な憧れ――いや、それ以上のものに近かった。
白華がわずかに微笑み返したとき、皇子の胸は高鳴り、頬に朱が差す。
その心の動きが、傍らに立つ彗天の目に鮮やかに映ってしまった。
――皇子までもがか。
皇族ですら、あの小娘の光に惹かれていく。
一方で、自分はどうだ。
「愚直な将」として血にまみれ、汗を流すばかり。
同じ場にいても、誰一人、自分の言葉を記憶に留めはしない。
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その日の政務の場で、彗天の心は三つの引き金を引かれた。
一つ目は、宰相や大司徒が白華を絶賛する光景。
二つ目は、皇子が白華に憧憬を抱く様子を目にしたこと。
三つ目は、白華自身が謙遜して殊勝に振る舞えば振る舞うほど、称賛が増幅していく逆説的な現象。
――白華は光だ。
だが、その光は俺を照らすことはない。むしろ俺を踏みにじる。
胸の奥で、ぷつりと音を立てるものがあった。
何かが、確かに切れた。
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夜。
執務室に忍び入った密使は、低く笑みを含んで囁いた。
「中将殿。あの娘の光は強すぎる。放置すれば、やがて皇族にさえ勝る影響力を持ちましょう」
「……俺は、この国を正す」
彗天の声は乾いていた。
「ならば、ためらう理由はない。貴方の正義が国を救うのです」
密使の声は、彗天の胸中に浸み込む毒のようだった。
白華を斬れば、皇族の均衡は揺らぎ、皇子の心も折れる。
そこに新たな秩序を築くのだ――そう囁かれ、彗天の歪んだ忠義はさらに燃え上がる。
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その頃、白華は宮中の廊下を歩みながら、ふと立ち止まった。
宰相たちの称賛はありがたい。
華稜皇子の憧れも、弟のように可愛らしく受け止められる。
だが――。
「何かが迫ってきている……」
肌の上を、見えぬ冷気が這い上がる感覚があった。
籠の中の鳥に注がれる視線。
徐々に自分に迫ってくる狂気のような凶器。
白華は振り返るが、廊下の奥には誰もいない。
ただ、胸の奥でざわめく不安は消えなかった。
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彗天の心は、今や実行寸前まで高まっていた。
計画は練られ、舞台は整い、機会も近づいている。
あとは――ただ一押し。
彼の胸に響く声は、自らのものか、それとも密使の囁きか。
「――俺が、この国を正すのだ。たとえ手にかけるのが少女であろうとも」
その決意は、冷たく澱みながら、確実に白華の未来を蝕んでいった。




