第十三章拾壱 歪んだ忠義の影
彗天中将は、夜の執務室に一人佇んでいた。
机の上には簡略な地図と巡回表。皇族と白華、興華の行動をまとめた記録簿。ろうそくの炎がわずかに揺れるたび、影は彼の顔を二重に歪ませた。
――幾度、胸中で描き直したことか。
彗天は白華殺害の機を、頭の中で何十度も反芻してきた。経路。時刻。皇族の動線。警護の薄れる瞬間。興華から切り離せる状況。逃走のための迂回路。
それらを一つひとつ秤にかけ、失敗の可能性を潰してきた。
「……実行の手応えは、もはや確かなものとなりつつある」
低く吐き出した声は、冷静さを装っていながらも、内奥に憎悪を孕んでいた。
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今の彗天は皇族警護の総責任者。氷陵帝や皇子皇女、そして白華・興華の側に常に控える立場を得ている。表向きは忠義を尽くす姿に映り、周囲の評価も悪くはなかった。
だが内心では違う。
(俺が……この国を正すのだ。あの小娘を手にかけてでも)
思い返すたび、胸の奥で燻るものがあった。
初めて白華と対峙したのは、あの国境警備の場。捕虜として現れたときの、ふてぶてしい態度。挑発する眼差し。
「小娘が……将を侮るなど」
その時に受けた屈辱が、いまや燃えさかる執念となっていた。
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昼間は皇族の行事に随行する。天華皇女や雪蓮皇女の馬車を先導し、華稜皇子の訓練場での稽古を見守る。白華も政務補佐として皇族に同行することが多く、興華は近衛隊とともに動く。
彗天はその場でも冷静に振る舞い、忠実な護衛を演じた。
だが、その眼差しは常に白華を捉えていた。宰相や大司徒に並んで談笑し、時に皇子皇女と親しげに言葉を交わすその姿。
(俺が戦場に立ち続けていた間に、何故この小娘が……)
苛立ちは募るばかりだった。
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そんな彗天を見て、雪嶺大将はある日、再度面談の場を設けた。
「彗天。お前の忠義はよく分かる。だが、皇族の警護に熱心すぎるのではないか?」
老将の声音は静かだが、確かな疑念が含まれていた。
「このままでは心労でお前自身が倒れるぞ」
彗天は一礼し、涼しい顔で答える。
「大将。皇族の警護こそが私の務め。これしきで疲れることはございません」
その態度は職務に忠実な将軍そのものであった。だが雪嶺の胸中には、拭えぬ違和感が残った。
(……忠義が強すぎる。忠義は時に、人を狂わせるものだ)
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その夜、雨の庭を歩く彗天の前に、黒い外套の影が現れた。例の密使である。
「中将殿。今日も皇族の守りに余念がないと聞きました」
「……貴様か」
彗天は声を低くした。だが、怒りを向けはしなかった。密使の言葉が、彼の心の奥をくすぐるからだ。
「白華という娘。帝や宰相の寵を受け、皇子皇女にまで近づいている」
密使は薄笑いを浮かべた。
「このまま放置すれば、いずれ国をも操るやもしれません」
「……だからこそ、私が正さねばならぬ」
彗天は小さく頷いた。
密使はさらに囁く。
「時機は近い。警護の経路をお前が描けるなら、その一瞬を掴むのも容易いはず」
「……心得ている」
彗天の瞳が、不気味な光を帯びた。
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冥府殿。黒蓮冥妃は、密使からの報告を受けていた。
「彗天は……よい。あの忠義と憎悪は、容易く刃に変わる」
報告を聞き終えた冥妃の唇に、わずかな笑みが浮かぶ。
「白華を討てば、興華の心は揺らぐ。……器を手中に収める好機となろう」
その声は、冷酷にして確信に満ちていた。
「焦ることはない。だが――その時は必ず訪れる」
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彗天中将は、白華殺害の機を胸中で幾度も描き直し、経路・時刻・離間の手段を一つひとつ秤にかけていた。
――実行の手応えは、もはや確かなものとなりつつあった。
その影を、密使も冥妃も注視していた。
そして、白陵国の宮廷に迫る暗雲は、音もなく濃さを増していくのだった。




