第十三章玖 並行して忍び寄る影
曹華は、休日の朝から部屋に籠もっていた。
陽光は薄い雲に遮られ、蒼龍京の街を柔らかい灰色に包み込んでいた。窓越しに見える屋根瓦は湿り気を帯び、どこか冷たく沈んでいるように見える。彼女の胸中もまた、その景色と同じ色に染まっていた。
(……私は、何かを間違ったのだろうか)
近頃、街を歩けば感じるのだ。商人の目が、農婦の笑顔が、かつてより淡い。親衛隊員の間でも、背を向けられるような冷たい視線が増えている。確かに、雷毅や幾人かの仲間は変わらず支えてくれる。だが、広がる噂は留まるところを知らない。
――天鳳将軍のお気に入りだから出世している。
――女でありながら兵を率いるのは不自然だ。
――彼女が入ってから、街の空気が淀んできた。
曹華は布団の端を握りしめた。
(私は剣を磨き、槍を研ぎ、命を賭して戦ってきた。その努力が見えないのか。……いや、見えないのではなく、見ようとしないのだろうか)
胸の奥で重たい靄が渦を巻く。雷毅の存在が、唯一の支えだった。だが、彼にまで負担を背負わせてよいのかという迷いが、彼女の口を閉ざす。
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一方、白陵国の首都では、白華が政務に臨んでいた。清峰宰相の傍らで文書を読み上げ、霜岳大司徒と論じ合う。まだ若いながらも、彼女の言葉には冴えがあり、帝すら耳を傾ける。
しかし、白華の胸には妙な“詰まり”があった。文書の流れ、議論の進展に、不可解な滞りが生まれている。誰かが意図的に流れを鈍らせているような、見えない抵抗を感じるのだ。
会議を終えた後、白華は宮城の回廊を歩きながらふと足を止めた。
(……鳥籠に閉じ込められた鳥のようだ)
羽ばたこうとするたびに、見えぬ網が絡みつく感覚。自分の周囲に迫り来るものは、ただの政敵の思惑なのか、それとももっと別の――狂気のような何かか。
興華もまた違和感を覚えていた。近衛兵の訓練の後、汗を拭いながら背筋に冷たいものが走る。視線を感じ、振り返るが、誰もいない。剣を強く握りしめ、歯を食いしばる。
(気のせい……ではない。誰かが俺たちを見ている)
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その“視線”のひとつは、彗天中将のものだった。
皇族警護の総責任者として任命され、氷陵帝や皇子皇女、そして白華と興華の身辺を常に守る立場にある。
外面は忠義一徹。姿勢は正しく、言葉は節度を守り、職務に全力を注いでいた。雪嶺大将も「真面目すぎるほどだ」と評価するほどだった。
だが、その仮面の裏には冷たい炎が燃えていた。
(俺が正すのだ。この国を。……たとえ、そのために小娘の命を奪うことになろうとも)
華稜皇子が白華に微笑みかける光景を見て、彗天の奥歯が軋む。
「馴れ馴れしい小娘め……」
その言葉は誰の耳にも届かず、彼の胸奥で黒い囁きとなって渦を巻いた。
雪嶺大将はそんな彼を呼び出し、再び面談した。
「皇族を守る姿勢は立派だが……熱心すぎはせぬか。疲弊すればお前が倒れるぞ」
彗天は目を伏せ、穏やかな声で応じた。
「大将、皇族を守るのは当然の務め。心労も疲労も、職務の一部にございます」
その言葉に、雪嶺はかすかな違和感を覚えた。だが証拠も理由もない。彼はただ深い皺を刻んだ眉を撫で、沈黙した。
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その頃、冥府殿では黒龍宗の密使が跪いていた。
「冥妃様。彗天中将はさらに憎悪を深め、白華を標的に据えております。外面は冷静ですが、内には炎を抱えています」
黒蓮冥妃は紅の唇に薄い笑みを浮かべた。
「よい。白華が死ねば、興華の心は折れる。龍脈の器は、その瞬間に我らのものとなろう」
密使は続けた。
「蒼龍国の曹華もまた、悪評に晒され、孤立しつつあります」
冥妃の目が細まる。
「器は興華ひとつで足りる。曹華は“死んだ”と世に思わせればよい。姉と弟の運命を利用して、興華の精神を縛るのだ」
冥妃は立ち上がり、長い袖を翻した。
「並べた駒が、ようやく動き出した。影は両国に忍び込み、同じ糸で結ばれている。あとは、機を見て引き絞るだけだ」
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蒼龍京で、曹華は孤独に胸を抱え。
白陵国で、白華は籠の中の鳥のような圧迫感を覚え。
興華は背後の視線に剣を握り。
彗天は忠義の仮面で憎悪を隠し、冥妃は冷酷な笑みで駒を配置する。
二国の空に、同じ暗雲が広がろうとしていた。




