第十三章捌 揺らぐ心
休日の朝、蒼龍京は陽光を受けて瓦が白く光っていた。だが、曹華の部屋の窓は固く閉ざされ、外の眩しさは遮られていた。机の上には槍が静かに立てかけられ、刃はすでに研ぎ澄まされている。それでも彼女の胸の奥に広がるざわめきは、晴れるどころか日に日に重さを増していた。
(……私は、何か間違えたのだろうか)
街に出るたびに、人々の態度が変わっていることを感じる。以前は「曹華様だ」と笑顔を向けてくれた市場の女たちも、今では小さく会釈するだけで足早に去っていく。鍛錬場で子どもたちに声をかけられることも少なくなった。噂は確実に広がっていた。
――女だから。
――天鳳将軍に取り入ったから。
そんな囁きが背に突き刺さるたび、曹華は心臓を握られるような痛みを覚えた。
「どうして……?」
誰に聞かせるでもなく、小さな声が零れる。机の上に置かれた布に視線を落とすと、そこには姉と弟の面影が浮かぶ。
(白華姉様、興華……あなたたちも、こんな違和感を感じてはいないだろうか)
かつて三人で笑い合った村の記憶。あの無垢な時間が胸を支えているからこそ、曹華は涙を流さなかった。ただ強く拳を握り、槍の柄を撫でる。その冷たい感触だけが、彼女を現実へと繋ぎ止めていた。
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一方その頃、雷毅は将軍府の執務室に立っていた。天鳳将軍と趙将隊長の前に進み出ると、胸の奥から抑えきれない声が溢れた。
「これは異常です! 首都も親衛隊も、今の空気は異常です!」
天鳳は机に手を置いたまま、静かな眼差しで雷毅を見つめる。その冷静さが逆に、雷毅の焦燥を際立たせた。
「曹華にあれほどの悪評が流れているのは、おかしい。誰かが意図的に広めているとしか思えません」
趙将は腕を組み、深刻な面持ちで頷いた。
「同感だ。市井に流れる噂は、ただの煙ではない。誰かが油を注いでいる。親衛隊内の空気も揺らいでいる。……内部崩壊ほど脆いものはない」
雷毅の拳が震える。脳裏には悩む曹華の姿が浮かんだ。あの強い眼差しを持つ彼女が、陰口に心を削られていくなど許せなかった。
天鳳は静かに言葉を落とした。
「……黒龍宗だな」
その名を聞いた瞬間、執務室の空気が一層冷え込んだ。
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天鳳は深く息を吐き、目を閉じる。やがて瞼を上げたときには、将としての厳しい光が宿っていた。
「趙将。親衛隊を引き締めろ。必ずある“原因”を突き止めよ。このまま放っておけば、兵の心を蝕み、軍は崩壊する」
「はっ」
趙将は即座に答えた。その声音には、事態の深刻さを理解している重みがあった。
天鳳は窓越しに空を見やる。晴れているのに、どこか薄曇りに見える蒼穹。
「……奴らは必ず、人の心の隙を突く。噂は剣で斬れず、盾で防げぬ。だが、軍の命を奪う刃にもなる」
雷毅は唇を噛み、声を震わせながら叫んだ。
「曹華は……必ず俺が守ります!」
その言葉に、天鳳はわずかに目を細めた。
「守るのではない。共に立つのだ。曹華もまた、お前と同じように守る者だ。そのことを忘れるな」
雷毅は息を呑み、深く頭を下げた。胸の奥で、曹華と並んで立つ自分の姿を強く思い描く。
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その夜。曹華は自室で槍を磨いていた。刃に映る自分の顔は、やつれが滲んでいるように見えた。
(……私は、間違っているのだろうか)
だが、その疑問の奥には小さな炎のような想いもあった。雷毅が傍にいる。天鳳将軍も趙将も信じてくれている。その事実が、噂に押し潰されそうな心をかろうじて支えていた。
「私は……折れない」
小さな声で呟き、槍の柄を強く握り締める。たとえ街でどんな噂が広がろうとも、己の信念だけは失ってはならない。そうでなければ、姉や弟と再会した時に胸を張れない。
窓の外、夜風に煽られて街の灯が揺れていた。その風の流れに、黒龍宗の影が潜んでいることを、曹華はまだ知る由もなかった。
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街は揺れ、親衛隊も揺れている。
曹華は胸を締め付ける不安に苛まれながらも、自分を奮い立たせていた。
雷毅は友として、男として、彼女を守ろうと決意を固めた。
天鳳と趙将は、影を操る敵の存在を確信し、対策を急ごうとしていた。
それぞれの心の奥で、戦わねばならない相手は黒龍宗だけでなく、己の迷いや噂という見えぬ敵でもあった。
そして、その見えぬ刃は、確実に蒼龍国の中枢へと忍び寄っていた――。




