第十三章漆 揺らぐ蒼龍京と親衛隊
蒼龍京は秋雨に濡れていた。瓦屋根を伝う水滴が路地に落ち、石畳は鈍い光を帯びて滑らかに光っている。人々の往来は普段どおりに見える。だが、曹華の目には、その中に確かな変化が映っていた。
――よそよそしい。
市場を歩くと、店主たちはいつも通りに挨拶を返すが、ほんのわずかに視線を逸らす。井戸端で談笑する女たちは、曹華の姿を見ると声を潜め、ひそひそと囁きを交わす。訓練を終えた帰り道、街角で子どもに手を振られて微笑みを返そうとしたとき、その母親が慌てて子を抱き寄せた場面もあった。
(……何かがおかしい。私は何もしていない。なのに、皆が距離を置いている……?)
曹華の心には、言葉にならない棘が刺さっていた。
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その違和感は、親衛隊の内部にも及び始めていた。
ある日の模擬戦、兵士同士の判定を巡る小さな口論があった。
「副隊長のやり方は、女だから甘いんだ!」
「何を言う! 曹華殿の指導があったから俺たちはここまで強くなれたんだ!」
一瞬の火花だった。だがその場の空気は重く淀み、消えない澱を残した。曹華はすぐに仲裁し、表向きは収めた。けれど、胸の奥に鈍い痛みが広がっていった。
(……私の存在が、隊を割っている? そんなはず……でも)
曹華の視線の先で、雷毅が険しい表情をしていた。彼は兵たちを諭し、収拾に努めていたが、曹華と視線が合ったとき、その瞳にわずかな焦燥が宿っているのを見逃さなかった。
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その裏で、馬成はさりげなく仲間に言葉を投げかけていた。
「副隊長の稽古は確かに厳しい。だが、将軍の庇護があるから誰も逆らえないんじゃないか?」
軽口のように交わされる一言。しかし、それは心の奥に不安を植え付ける種だった。
「……そうかもしれん」
「俺たち、ただ従うしかないのか?」
答えのない囁きが兵舎を漂う。馬成は表情に出さず、ただ静かにそれを見届ける。
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夜の蒼龍京。密使は再びあの路地裏に姿を現した。
薄暗い灯の下、奇妙な男が口笛を吹きながら待っていた。痩せた体躯、ぎらつく目。人々が避けるその存在は、街の影そのものだった。
「どうだ、あの女(曹華)の様子は」
密使が問いかける。
「民の目は揺らぎ始めた。馬成とやらが上手くやってるな。俺は裏通りで噂を煽るだけだ」
「上出来だ。人の噂は風のようなもの、一度流れれば止められぬ」
二人は小さく笑みを交わした。密使は冷徹に呟く。
「やがて彼女は孤立する。兵にも、民にも。――その時が、刃を向ける好機だ」
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その頃、曹華は兵舎の窓辺に立ち尽くしていた。訓練を終え、雷毅と共に兵の退室を見届けた後も、胸の奥のざわめきは消えなかった。
「……何かがおかしい。訓練場の空気も、街の空気も。まるで見えない手に、全部が少しずつ押し曲げられているような」
雷毅が振り返り、彼女の顔を見つめた。
「曹華。お前は何も悪くない。俺が知ってる曹華は、誰よりも真っ直ぐで、誰よりも強い」
その言葉に胸が熱くなる。けれど、曹華は首を振った。
「ありがとう。でも……私はまだ迷ってる。皆を導くはずなのに、不安に呑まれてる」
雷毅は一歩踏み出し、彼女の肩に手を置いた。
「迷ってもいい。迷いながらでも立ってるあんたを、俺は信じる」
曹華はその温もりに僅かな安らぎを覚えた。だが同時に、背後に潜む影の気配を振り払うことはできなかった。
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街では噂が渦を巻き始めていた。
「将軍の寵を受けてる副隊長は、出自も怪しいらしい」
「本当か? 黒い血を引いてるって話も……」
誰が流したか分からぬ噂が、井戸端から酒場へ、そして兵舎の兵の耳へと伝わっていく。曹華が歩くと人々が視線を逸らす理由が、次第に形を持ち始めていた。
親衛隊の中にも亀裂が走る。副隊長を信じる者と、心に疑念を抱く者。表立って争いはしない。だが、確かに隊は揺らいでいた。
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曹華は寝台に腰掛け、槍を抱くようにして夜を過ごした。
(白華姉様……興華……。あなたたちも、何かに狙われているんじゃないの? この不安は、偶然なんかじゃない)
雨は止んでいたが、夜風は冷たかった。蒼龍京の空に漂う影は、確かに濃くなりつつあった。
そしてその影の中心には、彼女――曹華自身が立たされている。




