第十三章伍 影と温もりの狭間
蒼龍京の空は夏の名残を引きずり、じりじりとした熱を地面に籠もらせていた。訓練場に集う親衛隊の兵たちの間には、鉄と汗の匂いが漂い、その中心で二つの影が槍と剣を交えていた。
曹華と雷毅――互いの息遣いは荒いが、目はまだ燃えていた。槍の穂先が閃き、剣の刃が火花を散らす。周囲の兵が一歩引いて固唾を呑むほど、その稽古は戦場さながらの激しさを帯びていた。
「そこだ!」
雷毅が踏み込む。だが曹華の体はしなやかに流れ、槍の柄で雷毅の重心を崩した。倒れる寸前、雷毅は踏みとどまり、剣を横に払って槍を絡め取る。二人の力が拮抗し、筋肉の軋む音が耳に響いた。
「……やっぱり強いな、雷毅」
「お前こそ。俺を何度倒す気だよ」
ふっと力を抜き、互いに距離を取る。兵たちから安堵混じりの笑い声が上がり、曹華は額の汗を拭った。その微笑は戦場の鋭さを忘れさせるほど柔らかく、雷毅の胸を不意に突き刺した。
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雷毅の脳裏には、初めて曹華と刃を交えた日の光景が蘇る。まだ少女の面影を残した曹華が新入りとして鍛錬場に立ったとき、彼は正直侮っていた。
(軽くいなして終わりだと思った。……なのに)
最初の一合で体勢を崩され、剣を弾かれ、背を取られた。周囲の失笑と、自らの顔を焼くような屈辱。だがその奥に、不思議な昂揚があった。自分を凌駕する力を持った相手に、敬意と同時に燃える感情が芽生えたのだ。
(あの瞬間から、俺にとってお前はただの仲間じゃなくなった)
曹華の姿は、戦友であり、手強い好敵手であり、そして……胸を熱くさせる存在となった。
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稽古を終えた後、二人は訓練場の片隅で水を飲みながら息を整えていた。
「最近、剣筋が変わったな」
雷毅が言うと、曹華は小さく笑った。
「天鳳将軍の動きを盗んでるだけよ。あの人の間合いは底が知れない」
「いや……それだけじゃない。お前自身の色が出てきてる。前よりも強くて……怖いくらいだ」
曹華は目を伏せた。
「怖い、か。……でも、そうでなきゃ私は戦えないの」
その声の奥に、雷毅は固い決意と、言葉にできない影を感じ取った。
「お前がそんなに背負う必要はないだろ」
「背負わなきゃいけないの。……誰にも言えないけど」
雷毅はそれ以上問いたださなかった。ただ、曹華の横顔を見つめ、胸の内で呟いた。
(俺は……守りたい。戦友だから、じゃなくて……)
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一方その頃、城下の裏路地では別の会話が交わされていた。
「曹華は兵から慕われすぎている。だが、それは裏を返せば……失望も大きいということだ」
黒装束の密使が低い声で囁く。対するは、親衛隊に潜り込んだ馬成。
「どういう意味だ」
「女であることを忘れた強さ。そこに人間らしい心が混じれば、兵たちは迷う。『俺たちは利用されているだけか』と」
馬成は眉をひそめたが、密使の言葉が胸に残った。曹華が時折雷毅と交わす笑顔、それを見た兵の視線の揺らぎ。確かに、そこに隙があるようにも思えた。
別の影――路地裏の男もまた、酒場で噂を広めていた。
「曹華殿は強いが、結局は女だ。女が隊を導いて、果たして最後まで持つものかね」
小さな一言が、やがて兵や町人の心に染み込み、形を変えて広がっていく。
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遠く離れた冥府殿。黒蓮冥妃は密使の報告を受け、瞼の奥に冷たい光を宿した。
「……なるほど。曹華はまだ“器”かどうか定かではない。だが、興華の姉である可能性は消えぬ。ならば――死んだことにすればよい」
紫霞が問う。
「今すぐ手を下しますか?」
冥妃は首を振った。
「焦るな。まずは噂を広め、兵の心を揺らせ。曹華の立場を削ぎ落とし、孤立させる。殺すのはその後でよい」
朱烈や玄鉄が膝を折り、冥妃の言葉に従った。
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その夜、曹華は槍を磨きながら考えていた。雷毅の言葉が頭から離れない。
「お前がそんなに背負う必要はないだろ」
――本当にそうだろうか。
だが、姉と弟と再会するため、そして父の無念を晴らすため。自分には歩むべき道がある。
(それでも……雷毅の気持ちを、無視し続けていいのだろうか)
胸の奥に生まれる葛藤を抱えながら、曹華は静かに槍を握り直した。知らぬ間に、彼女を取り巻く空気はゆっくりと濁り始めていた。




