第十三章参 国境にて語られる
冷たい雨が国境の砦を叩いていた。
湿った石壁に囲まれた兵舎の詰所。その空気は、戦場の喧噪から一歩引いた、しかし油断のならぬ緊張感を漂わせていた。
詰所の奥で、氷雨中将は火鉢に手をかざし、向かいの老将――凍昊中将と向き合っていた。
彼はかつて氷陵帝と雪嶺大将と肩を並べて戦った猛将でありながら、黒龍宗と通じた疑いが消えていない。氷雨はずっと警戒を解かず、密かに探りを入れていた。
しかし、その日、凍昊の方から切り出した。
「……氷雨中将。どうやら、お主は儂が黒龍宗に通じていると疑っておるな」
氷雨の眉がぴくりと動いた。
思いもよらぬ直言に、一瞬息を呑む。
「……なぜ、そのように言い切れるのですか」
すると、老将はゆるりと笑った。
「表情よ。儂の前に座った時から、警戒の色を隠せておらん」
氷雨は反射的に腰の剣へ手をかけた。
「もし事実ならば、この場で斬る覚悟はある」
凍昊は動じない。むしろ、その剣気を正面から受け止め、重い溜息を洩らした。
氷雨の肩が微かに強張る。即座に剣の柄に手が伸びそうになるのを堪え、鋭い眼差しで老将を睨んだ。
凍昊は苦い笑みを浮かべた。
「そう構えるな。たしかに、儂は一度、道を誤った。だが……思い出したのだよ」
「……思い出した?」
その一言に、氷雨は剣を抜けずに固まった。
老将の瞳には開き直りの色はない。
長年の悔恨と疲労が滲んでいた。
「若き日の儂は、氷陵帝殿下と雪嶺大将と共に戦場を駆けた。大陸の荒波を共に越え、柏林国への留学にも随行した……。だが、その後だ。昇進と共に退屈な日々が始まった。己の存在が戦に不要だと知った時、心に隙が生じた」
凍昊の声は、火鉢の煙のようにかすかに揺れていた。
「黒龍宗はそこに付け入った。力を囁き、影を差し伸べた。……儂は、それを拒みきれなんだ」
老将の声は静かだったが、火鉢の炎に照らされた皺の奥には、悔恨の影が浮かんでいた。
氷雨は一瞬言葉を失う。黒龍宗の影に取り込まれたことを、自ら口にする将軍など想像だにしなかった。
氷雨の瞳が険しさを増す。だが老将は続ける。
「だが、思い出したのだ。興華殿と剣を交えた時、己の血が熱を取り戻すのを感じた。蒼龍国と黒龍宗と対峙した時、儂は戦の本分を思い出した。……忠義を売り渡すのがどれほど愚かなことかを」
凍昊は拳を膝に押し当て、声を震わせる。
「儂は悔いておる。己の弱さを。黒龍宗の影に縋ったあの頃を」
氷雨は言葉を失っていた。
凍昊の吐露は、あまりにも人間的だったからだ。
――これは、黒龍宗の奸智に染まりきった者の声ではない。
目の前の老将は、自らの過ちを真正面から見据え、悔いている。
「……では、今は違うと?」
「違う。儂は愚かだった。だが、まだ老いていくには早い。最後に、己の過ちを償うための剣を振るいたいのだ」
氷雨は目を伏せ、しばし沈黙した。やがて、問いを変える。
「……ならば、なぜその過ちを、今ここで告白するのです?」
「お主に伝えておきたかったのだ」
凍昊は炎を見据えたまま、低く続けた。
「氷雨中将、お主は若いが真を見抜く目を持っておる。ゆえにこそ、今から気に掛けておいてほしい者がいる」
氷雨は眉をひそめた。
「……誰のことです?」
「彗天中将だ」
その名を聞いた瞬間、氷雨の胸に妙なざわめきが走る。
凍昊は言葉を継いだ。
「あやつは真っ直ぐで、忠義に厚い。だが、あまりに愚直だ。頑なで、感情に流されやすい。忠義は確かであろうが、心の揺らぎが表に出やすい。……黒龍宗のような影は、そうした隙を好むのだ」
氷雨は過去を思い出した。
――国境での取り調べ。正体不明の二人組――白華と興華を詰問した時のことだ。
白華は堂々と、むしろ挑発的に雪嶺大将に言葉を放った。その時、彗天は逆上し、剣を抜きかけた。
「……たしかに。あの時の彗天中将は、ただ職務を果たすのではなく、感情に呑まれていました。白華殿に挑発され、我を忘れていた……」
凍昊は静かに頷く。
「だからこそ案じている。純粋であるがゆえに、影に付け入られる余地がある。もしあやつが己の忠義を外れた時……それは黒龍宗にとって、最高の餌となろう」
氷雨は拳を握りしめた。
「……では、どうすれば」
「見守れ。そして、変化に気づいたら見過ごすな」
凍昊の眼差しは炎を通り越して氷雨に突き刺さる。
「黒龍宗は人の心に巣食う。剣や槍で斬れる敵ではない。だからこそ、人の隙を塞ぐのもまた戦の一部だ」
氷雨は深く息を吐き、真剣な面持ちで頷いた。
「承知しました。もしその時が来れば、必ず止めてみせます」
老将の目にわずかな安堵が浮かぶ。
「それでよい……」
火鉢の炎が大きく爆ぜ、二人の影を壁に揺らめかせた。
砦の外では雨が降り続いていたが、その音はどこか不吉な太鼓のように響いていた。
――忠義の影が、静かに揺らぎ始めている。
そう感じたのは、氷雨だけではなかった。
氷雨はなおも警戒を解けなかったが、同時に心の奥で揺らぎを覚えていた。
この老将の目は、虚飾ではない。悔恨と決意が入り混じった、本物の光だ。
「……信じるのは容易ではない。だが、あなたの言葉は偽りには聞こえぬ」
凍昊はうなずき、かすかに笑った。
「若いお主が疑うのも無理はない。だが、いずれ戦場で背を預け合う時が来よう。その時、儂がどちらに剣を振るうか……その眼で見極めるがよい」
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外では雨と風が砦の石壁を打ち、兵舎の外灯が揺らめいていた。
詰所の沈黙は重く、だがどこか温かさを含んでいた。
氷雨は剣から手を離し、椅子に深く腰を沈めた。
「……承知しました。いずれ必ず、あなたの真を見極めます」
凍昊は目を閉じ、低く答える。
「それでよい。疑念は剣と共に振るえ。そうすれば、必ず真実に届く」
火鉢の炎が二人の影を壁に映し出していた。
老将の影と若き将の影は、まだ交わらぬまま並び立つ。
だが、遠く離れた白陵国の首都では、もう一つの影――彗天の歪んだ野心が静かに膨らみつつあった。
それがやがて、白華と興華を巻き込む大きな渦を生むことを、この砦の二人はまだ知らなかった。




